答えとしての物語

世の中のほとんどの問いには答えがない。答えの候補になるものはいつもいくらでも思い浮かぶけれど、そのどれにも悪いところがあって、その中に正解はありそうにない。あるいはどの答えにもそれなりの説得力があって、複数の納得できる説明を前に、わたしたちは迷ってしまう。いったいどちらの側に、わたしは付けばいいのだろうかと。

 

毎度毎度、この日記にわたしは壮大な問いをぶち上げている。それらは簡単に答えを見出せる問いではないから、当然わたし一人では解決できない。一応毎日、わたしは最後に結論のようなものを述べて終わろうと努力はしているが、それもなかなか難しい。日記をどう締めるかを考えるのに、わたしは毎日それなりに困っている。

 

そういうときに使える簡単な締め方を、わたしはひとつ知っている。いつもそれでは味気ないけれど、たまには使っても赦されるようなものだ。積極的に使いたくはないと思いながらも、わたしはよくそれを使っている。もしここに熱心な読者が存在するのならば、きっとそれをもう何度も見ているだろう。

 

そう。分からないものは仕方がないのだから、「分からない」で締めればいいのだ。

 

思うにこういう媒体は、あらゆる問いに答えるにはあまり適切な場とは言えないのかもしれない。わたしは問題に対して論理を展開するわけだが、論理はそんなに万能ではないからだ。どの選択肢も論理的に否定しえないのなら、論理はそれ以上のことを導けない。しかしながら問いが難しいのは、論理が否定も肯定もできないいくつもの答えが考えられるからなのだ。論理には、それ以上なすすべがない。

 

その代わりができる媒体として、きっと物語が挙げられる。多くの物語で作者は解けそうにない問題を提示し、それに対する一定の答えを返す。物語というものはなかなかによくできていて、というのもラストを面白くするためには、読者の予想を裏切らなければならないという規則があるのだ。道中で提示された問いが、たとえば選択肢 A と選択肢 B であったとする。すれば最終的な結論は、A でも B でもありえないわけだ。

 

このことは物語というものの持つ制約だが、同時に問いというものの持つ制約でもある。ある問いに対して簡単に思い浮かぶ答えは、どれもこれも間違っている。それらのどれが正しいのかを永遠に吟味したところで、答えは得られない。わたしたちは袋小路に迷い込むだけだ。そして結論の意外性という制約はそのまま、その袋小路から抜け出すための制約なのだ。

 

かくして物語は、一定の答えを与える。その答えはきっと単純な論理ではなく、物語全体を読み通して初めて見えてくるものだ。複雑さゆえに、物語は解析を受け付けない。解析を受け付けないからこそ、論理に解体されないからこそ、物語は答えであり続けられる。

 

だからおそらく、わたしはここで物語を書くべきだ。書いて、新しく複雑な答えに向き合うべきだ。そんなことがわたしに可能なのかについては……そうだな。

 

分からない、とでも言っておこうか。