単純な因果を求めて

文章による表現では、美しさのかなりの部分が論理性に基づいている。物語の主題とはたとえば主人公の心情や社会情勢なわけだが、そういうものにはかなりしっかりとした時系列的な因果関係が横たわっている。そしてそれらの因果を説明する手段は、論理以外のなにものでもないわけだ。

 

ほとんどの場合、因果は現実より分かりやすい。その理由はいくつかあって、ひとつは単に、現実は複雑すぎて語り切れないからだ。筆者は世界を、物語として書くことのできるくらいに単純に作る。現実と見まごうくらいに詳細な設定は、一部のマニア以外には必要ないわけだ。

 

あるいは仮に作中世界なるものが最初からあって、筆者がそれをある程度自在に観測できたとしてみよう。そして世界はとても複雑で、到底すべてを描き切れるようなものではなかったとしよう。その場合も、筆者は複雑な世界をあえて単純化して描く。その理由は世界のほとんどの部分が物語に関与しないからで、関与しない部分をわざわざ書いても蛇足になるからだ。歴史などがいい例で、たとえば戦国武将の活躍を描き出すのに、当時の言語体系や現地の生態系の話を始める必要はないわけである。

 

物語の因果が分かりやすいもうひとつの理由は、物語を読む側の都合にある。つまり読者とは単純な因果を求めるものなのだ。

 

現実世界での因果関係は、しばしば複雑で曖昧で分かりにくかったりする。あるいはなんの理由もなくひとが行動し、それが理由も分からないままに大事件の引き金になったりもする。あきらかに破綻した思い込みの論理でひとが動き、そして別の破綻がそれと争う。わたしたちが理解できる論理はそこにはなく、その手の出来事を観測すれば、わたしたちが味わうのは後味の悪さだけだ。

 

だが、それは物語とは呼べない。事実は小説より奇なりとよく言われるが、それはおそらく、作家の想像力に限界があるからではない。作家は現実より奇妙なことをさんざん想像してきたわけで、それが現実程度のものに負けてしまっては困るのだ。その違いは、現実と物語が許せる論理性の、いや論理性の欠如のレベルの違いにある。すなわち現実は、実際に起こったのだという言い訳をすればいかに奇妙なことでも受け入れてしまえる。しかしながら物語という媒体は「奇である」ことを許してくれない。「奇である」ことは褒められるべきことではなく、単に筆者が論理性を放棄した結果として扱われてしまうわけだ。

 

さて。わたしは単純な論理を愛する人間だ。現実の複雑性に唾を吐きかけ、一律な論理のもとに統一してしまいたいと思っている。現実は物語になるべきで、単純な一部分だけが切り取られるべきだ。切り取った一部を近視眼的に分析し、それを全体に適用して問題なく動作するべきだ。

 

残念ながら、現実はそうはならない。現実は汚い。論理がない。面白くないことが大量に起こる。

 

だから、論理を愛しつづけるために。論理を愛しても、現実認識に支障を生じさせないために。できる限り、わたしは物語に籠っているべきなのだ。