神話の崩壊

わたしたちは今日、またひとつの神話の崩壊を目撃した。

 

それは間違いなく神話だった。こんなことは起こらないと誰もが思っていた。そのときになるまで、だれもそんな物語を信じていなかった。そしてなにより、なぜそれが起こらないのかについて、誰も明確な理由を説明していたわけではなかった。説明する必要がなかったからだ。

 

誰もが信じているがゆえに、誰にも説明の必要がない。あまりに当たり前のことがらだから、説明されるまでもなく信じ込んでしまう。神話にはそういう性質があり、だからこそわたしたちは崩壊に際してショックを受ける。なぜそんなものを信じるのかと実際に問われたなら、まともな抽象的思考能力のあるひとなら誰でも、確固たる法則だと思っていたものが実は神話に過ぎなかったということを認めただろう。論理性の不在という穴を真剣に突かれたなら、わたしたちはひとりずつ順に、目を覚ましていっていたのかもしれない。そのすべてが、実際にことが起こる前に実現されることだって、論理的にはあり得た話だろう。だがそんな過去は、やはり存在しえない。なぜなら、わたしたちの神話を真剣に崩壊させようだなんて、けっして誰も試みたりしないからだ。

 

かくして神話を崩壊させるのは、つねに実際の事件である。現実の訴求力とはすさまじく、わたしたちがこれまで問いかけようともしなかった問題に関する意見を、ただの一瞬でがらりと塗り替えてしまう。百聞は一見に如かず。事実は小説より奇なり。それまでに気づいていてもおかしくはなかったはずの論理の不在を、誰も真剣に取り合おうとはしなかったはずの問題を、事実は一撃で白日のもとに晒す。

 

事実が異常を当たり前にする過程に、論理は介在しない。わたしたちはショックを通じて、それまでわたしたちが何の根拠にも基づいていなかったことを、確かに確認しはする。しかしながら常識は、論理の穴を補強することで塗り替わるわけではない。直感だけがあったところに別の直感を打ち立て、そしてこれまでとは違って新しい直感のほうは、これこそが実際に起きたことである、という強力な歴史の後ろ盾を持っている。かくしてわたしたちは、地道な努力など一切関係なしに、一瞬にしてドラスティックに塗り替わってゆく。

 

そういう事件は、歴史上おそらく無数に起きていることだろう。わたしの計量では今年に入って二度目で、確かにすこし多いかもしれないが、信じられないレベルではない。これからもまたなにかが崩壊するだろうし、そしてそれをもって、世界そのものが崩壊したと断じるのは早計だ。わたしたちは時折がらりと塗り替えられ、そしてその幾重もの積み重ねが、時代の変化と呼ばれるものになるのだろう。

 

では、次に崩壊する神話はなんだろう。

 

もちろん、そんなことは分からない。分かるなら、誰も苦労しないわけだ。しかしながら論理的主体として、論理の通らないものはすべからく疑う習性をもつ人間として、ひとつの態度を持ち続けておきたい。

 

それは。たとえどんなことが起こっても、それが論理的に起こりうることならば、黙って冷静に受け入れることだ。