少年のリスク評価

小さい頃の怖いもの知らずのエピソードを挙げよと言われれば、わたしは小学校の修学旅行のことを思い出す。

 

ある晩わたしたちが泊まっていたのは、とあるホテルの一室だった。正確なことは覚えていないが部屋はたしか五階くらいにあって、窓から下を覗けば、数メートル先にロビーの張り出し屋根が見えた覚えがある。落ちたら死ぬかは分からないが、ただでは済まないのは明らかだった。

 

修学旅行の夜といえば、当然夜更かしである。当時きわめて一般的な小学生であったわたしたちは、いつの時代の小学生もやるように、見回りの先生たちに隠れて起きていた。そしていつの時代の小学生もそうであるように、部屋の面々とよりもより大人数で一緒にいることを望んだ。そして歴史上いつもそうであったように、先生の目を盗んで部屋を移動しようと試みた。

 

どの学校でもそうであるように、修学旅行の夜の廊下にはひとつの明白な危険がある。見回りの先生に見つかれば、部屋に戻されてしこたま怒られるのだ。小学生にとって修学旅行の夜とはとてつもなく特別なイベントで、だからわたしたちはみな、どんなことがあっても必ず夜更かしをして遊びたいと心に決めていた。だけれどわたしたちには、そのためならいくら先生に怒られて詰められてもいいと考えるだけの不遜な胆力がなかった。つまりわたしたちは自由を求めつつも、権力には屈しなければならなかった。リスクを冒して廊下を走ることはとてもできなかったのだ。

 

さて。そのホテルの構造は少々特殊だった。窓の外、ベランダの柵の向こう側には細く張り出した部分があり、ふつうに歩くには少々心細いが、壁に沿ってそろそろと進んでいくことはできるくらいの幅があった。張り出しは隣のベランダにまで続いていて、もう一度柵を超えればそちらへ降り立つことができた。そして隣の部屋の窓が開いていれば、そのまま侵入することができるようになっていた。

 

友情に飢えた小学生がなにをしでかしたのかは、もうお分かりだろう。わたしたちは夜中、ホテルの外壁を蜘蛛のように這って、先生を恐れる友人たちが電気を消して待っている隣の部屋へと移動していたのである。

 

いま考えれば、なかなかにおかしな話だ。わたしたちは先生に怒られるリスクを避けるために、自分の命を危険にさらしていたわけだ。だが当時のリスク判断は、間違いなく怒られる方が上であった。張り出しから落ちる可能性を考えなかったわけではないが、それはほとんどゼロだと思っていた。たしか大問題にはならなかったはずだから、きっと誰も落ちなかったのだろう。だからわたしたちの判断は間違っていなかったのかもしれない。しかしながらいまのわたしたちなら、それが正確な判断かどうかはさておき、間違いなく落下のほうを恐れるだろうと思う。

 

もしかすると、この話は誇張されているかもしれない。記憶は時間によって美化されるもので、そのための時間は十年以上もあった。もしかすると渡ったのは、昼間の張り出しなのかもしれない。あるいは下にネットか何かがあって、ひとが落ちないようになっていたのかもしれない。

 

だが。あの頃のわたしたちは間違いなく、いまとは異なるリスク意識を持っていた。それは間違いない。いまのわたしに至るまでの変化は、規模こそ正確にはつかめないが、大きいと呼べることは事実だろう。

 

変化が惜しいかと言われればそうでもない。今のほうがいいかと言われれば定かではない。だが間違いなく、わたしにはそういう時代があった。そしてそれは、二度と戻らないかけがえのないものなのだ。