美文の出現位置

世の中の絵の多くは、わたしたちが鑑賞するために描かれている。古典的な宗教画もゲームの絵も、風景画もアニメの一コマもみな、見たひとの感情を動かすための表現だ。わざわざ絵を描くことによって伝えられる情報とはそうするだけの理由のある情報であり、その理由のほとんどは、わたしたちの美的センスに訴えかけるためだ。

 

もっとも、そうでない絵が存在しないわけではない。たとえば道路標識はたしかに絵でこそあるが、ひとに鑑賞させるための表現形態ではない。運転手が一瞬で認識できるべきであるという要請が道路標識にはあり、そして絵画の持つ性質がその要請に完璧に合っているから、標識には絵画が用いられるわけだ。ほかにもピクトグラムなんていう表現もあり、それはわたしたちの心を動かさないにせよ、多言語多様性の社会のなかではきわめて有用な表現形態になる。

 

しかしながら、そういうものは例外にすぎないというのもまた正しいだろう。絵画に鑑賞以外の役割を持たせられるからと言って、絵画が鑑賞するものではなくなってしまうわけではない。絵画の大部分は依然として美しさを楽しむためのもので、絵を描く人の多くは、それがひとの心を刺激することを目指して絵を描いている。

 

文章という形態はそうではない。わたしたちが目にするほとんどの文章は、なにか特定の情報を伝えるために書かれているからだ。鑑賞用の文章というものもあるにはあるが、観賞用の絵画と違ってそれは少数派だ。小説の一部には美文が潜んでいるが、それでもほとんどの部分は、舞台設定なり主人公の性格なりを伝えるための情報伝達である。

 

さて。では文章表現に美文は必要ないのかといえば、必ずしもそうではない。というのも、世の中には美文でしか伝えられない情報、言い換えれば情景があるのだ。誰がどこでいつ何をした、なぜどのようにした、文章のほとんどを占めるそんな情報は確かに、美しく書かれる必要はない。だがそうでないわずかな部分、すなわち読者に抱いてほしい感情のある部分では、わたしたちは美文を書かなければならない。

 

言い換えるなら、それは臨場感を出したい部分、とも呼べるかもしれない。

 

だれかのおかれた境遇に、読者を共感させること。主人公の感情に、読者を共鳴させること。文章の外にみずからを置いている読者を話に引きこみ、あたかもその場にいるかのように錯覚させること。一次元の文字の羅列にすぎない文章の中に、視覚と嗅覚と聴覚と味覚と触覚を、立体的に感じさせること。書いてある情報をはるかに超えるイメージを、感情を、読んだ人の心に惹起すること。

 

そのためには、表現は説明であってはいけない。説明したことしか伝えられない、分かりやすい説明であってはいけないのだ。わたしたちは奇跡を起こさなければいけない。情報理論的限界を、わたしたちは越えていかなければならないのだ。

 

当たり前ながら、それは難しいことだ。情報理論は理論であり、文字列はそのビット数分の情報しか伝えられないと証明されている。けれど、やるしかない。

 

論理を超えた部分に訴えかけなければいけない以上、わたしたちもまた、論理を越えなければならないのだから。