道徳と独立の選択

ひとは全員が道徳的なわけではない。わたしたちは多かれ少なかれ背徳的なことをするし、その一部を仕方ないことだと受け入れている。受け入れないまでもあるいは葛藤を覚えながら、罪であると分かっているなんらかを犯している。

 

それが良いことなのか悪いことなのかは、わたしには分からない。健全なのか不健全なのかも考え方による。仮にわたしたちの全員が道徳的になり、完全な徳治主義が成立したとして、それがユートピアなのかディストピアなのかもわたしには判断がつかない。分からないけれどもとにかく人類社会は現にそういうふうになっていて、こんな状況を引き起こす欠陥はおそらく、人間の習性と道徳の観念の両方にあるのだろう。

 

さてだが、わたしたちは断じて道徳を知らないわけではない。道徳という観念があることをわたしたちは学んできたし、それを所与のものとして受け入れるかどうかはさておき、道徳の正体を理解してはいる。そしてそれら道徳の内容は、社会では驚くべき高精度で共有されているわけだ。少なくとも、些細な点に関する違いが目立ってきてしまう程度の精度では。

 

かくしてわたしたちは、道徳の正体に悩みはしない。なにが道徳的でなにが道徳的でないのか、ほとんどの場合に知っている。トロッコ問題はきわめて限定的な状況で、多くの場合、モラルと別のモラルはぶつからないのだ。

 

かくしてわたしたちの悩みは、選択肢の中からなにが道徳的であるかを選ぶ際の悩みではない。道徳の正体が問題になる例は少ないからだ。そしてわたしたちがより高い頻度で悩むのは、目の前の道徳的選択肢を自分が本当に選択するのかどうかという点だ。つまり、道徳か道徳以外か。

 

道徳かそれ以外を選ぶシチュエーションで、ひとはしばしば後者を選ぶ。道徳はすべてに優先する観念だと道徳は語るが、その道徳は単に道徳自身を過大評価しているのだ。道徳に現実に優先される観念はいくらでもあり、たとえばそれは金銭だったり、怨恨だったり、あるいは愛だったりする。

 

道徳を選ばない態度にはもちろん、みずから非道徳的であろうとする態度も含まれている。つまりは、道徳が道徳であるからこそ選ばない、という態度のことだ。道徳をわざわざ拒否する理由はひとによってさまざまだ。だけれど大方の場合それは、道徳に従うのは格好悪いというありきたりな感情とそう離れてはいないだろう。

 

言うまでもないことだが、彼らの残念なところは道徳に縛られている点にある。道徳の反対をやるという行為によって、行動を道徳に規定されているわけだ。ある意味で、彼らは道徳のもっとも従順な飼い犬だ。道徳とその反対から外れるということに、思いも至らないわけだから。

 

さて。ではほかの態度はどうだろうか。ほかの態度を取れば、ひとは道徳から自由でいられるのだろうか。なにが道徳でなにが道徳でないかということを、選択肢を選ぶ際の感情に入れないように、わたしたちはなれるのだろうか。

 

もしかすると、そうかもしれない。けれどそうでないとしたら。わたしたちは、純粋に道徳と独立でいられるためには少々、道徳を知り過ぎてしまったのかもしれない。