すべてが本分になる日

未就学児の本分は遊ぶことであり、小学生の本分は社会生活を学ぶことだ。中学生や高校生の本分は部活か勉強であり、学年が上がるごとにその義務が高まっていく。大学生の本分はひとによって違うが、基本的には四つのうちのひとつだ。すなわちよく言われるように、勉強・バイト・サークル・恋愛のうちのどれかを選ぶわけだ。

 

大学院生になると、本分は研究にシフトチェンジする。あるいは会社員になれば、本分は仕事だ。わたしたちが人生のレールに乗り続けている限りは、どんな身分におかれていたところで、社会はわたしたちの本分を規定する。それに少なくない労力を注ぐのが当たり前だとわたしたちは思わされる。

 

さて。自己実現とは結構な割合で本分の外にある。なにが本分かとか人生のステップがどういう風になっているのかそういうアイデアのないほどに若い世代を除いて、やるべきことをやっているだけではアイデンティティにはならないわけだ。学校の勉強ができることはそれだけではくだらないし、よほど普通から外れたバイトをしていない限り、大学生はただの低賃金労働者だ。

 

もちろん世の中には、本分を用いて自己実現を果たせるひともいる。部活でエースを張ったり、サークルでリーダーをしたりするひとたちのことだ。だがそのひとたちのやることだって、むしろ本分を超えた先と言える。なにせ本分とは当たり前のこと、それほどに多くを求めないものだからだ。本分に従順でいたいだけならば、部活やサークルの普通のメンバーとして、普通に日々をこなしていればいいのだ。

 

というわけで、ここにひとつの逆説的な論理が持ち上がってくる。つまり自分の立場における本分をこなしていると認識されることは、けっして自己実現とは呼ばれえないのではないか、ということだ。周りと同じことをやるための努力は、けっして自分が自分であるための努力ではない。いかに大変な努力だろうが、その大変な努力をまわりもこなしている限りにおいて、それは自分を作り出すための努力ではないのだ。

 

さて。大学生の頃、わたしにとって研究とは自己実現だった。周りの誰もがいずれはやることになることだとはいえ、当時のわたしの周りにはそんなひとはいなかったからだ。研究は全く義務ではなく、しこうして本分ではなく、かくして自己実現以外の何物でもありえない。だがまわりが研究をはじめて、研究をするひとしか残らなくなってしまったら話は別だ。

 

かくして、いまのわたしは自己を実現していない。成果は出ているし論文もそれなりに書いてはいるが、エースになれるほどではない。というより、自己実現という意味でのエースにはなりえない。なぜなら論文を書くことは、なんら特殊なことではないのだから。

 

人生のステージが上がるほど、本分に求められるレベルは上がる。本分以外のことをする余裕はなくなってくる。アイデンティティを担保する術は減ってゆく。そしてよしんばなにか自己実現の手段を見つけたとして、それを仕事にしてしまえば、わたしはまた平凡に戻ってしまう。

 

おそらく、わたしは本分で満足するべきなのだろう。自己実現と本分は異ならなければならないという原則を振りかざすのをやめて、本分の中に自分を見出していくべきなのだろう。だがどうすればそれができるのか、いまのわたしには、まだ定かには分からない。