面白さ以外のもの

陰謀論と公然の秘密は別物だが、それらを区別するためにはどうすればいいのだろうか。

 

一部の陰謀論は、そんなことを議論するまでもなく陰謀論だ。一番分かりやすい例は、最近なにかとネタにされがちなあいつ。ワクチンを打つと、5G に接続して、思考をどこかの当局に盗み見られる、ってやつ。ものすごい発想力で、科学技術の限界をまるきり無視していて、むしろ現代の科学の偉大さに対する絶大な信頼さえ感じられるアレ。荒唐無稽とは誉めことばでもあって、どこからそんな発想が出てくるのかてんで見当がつかなければ、それはまったく斬新な発想ということになる。

 

ほかにも、要人のクローン説。彼らの頭の中にある技術世界は、人間の完全なクローンを作る完璧な技術を開発していて、その技術はストリートにおける麻薬くらいの身近さでわたしたちの生活に染み込んでいる。そんな面白そうな世界があるのならむしろ行ってみたいし、もしも彼らの世界設定が細かく決められていれば、せめてインタビューでもしてみたいものだ。彼らにとってそれは現実であり闇の世界らしいが、わたしにとってそれはすばらしく面白い光の世界で、さっさとそのクローン技術とやらをわたしに見えるところに応用してもらいたいものだ。

 

残念ながら世界はそんなに面白くない。かくして、現実だとすれば少々面白すぎるという点を持って、それらは陰謀論に分類されざるを得ないのだ。公然の秘密とはもっと地に足がついて、やけに生々しくて、全然面白くもなんともないもののことだ。そんなものと、陰謀論を一緒にしてはいけない。

 

けれどまた一部の陰謀論は、陰謀論に期待されるほど面白くはない。たとえばワクチンが毒であるという可能性は、完全に物理的側面だけから考えればありえない話ではないわけだ。毒というものは世の中にいくらでも存在するし、それを注射器に詰めることは原理上可能だ。可能なゆえに、それが真実である世界は現実と同じくそんなに面白くない。

 

誰と誰が裏でつながっている、という話は、輪をかけて面白くない。ほとんどどんな場合でも、それはありうる話だからだ。そういうものの一部は陰謀論だし、一部は公然の秘密だ。だがどれを陰謀論と判断するのかについては、明確な判断基準はない。そして論理だけを見ていては、それらは永遠に、真実かどうか判定することなどできないだろう。

 

では、どうするか。簡単だ。主張の中核にある論理については判断しないことにして、それ以外の部分を見てやればいいのだ。

 

主張にはさまざまなメタ情報がある。誰が語っているのかはもちろんそうだし、いつどういうふうに語られたのかもそうだ。あるいは、語られるべき何が語られなかったのか、というのもそうだ。そういう情報を総合して、わたしたちは噂の真偽を判断する。話が面白いかどうかでも、作り込まれているかでもなく、まわりの世界のほうが生々しく、よく作り込まれているかどうかを用いて。

 

どういうメタ情報が話の信憑性を増し、どういうメタ情報が減らすのか。その判断基準はひとによって異なるだろうし、わたしの基準を公表するつもりも、誰かに押し付けるつもりもない。だけれどきっと、噂を語る側に立つのならば、いちばん大切なものはメタ情報のほうになるのだろう。

 

なにせ、わたしがそうやって情報を取捨選択するのだから。