研究者の自己認識法 ①

研究が金のかかるものである以上、わたしたち研究者には、どこかから金銭を調達する理由を必要とする。そして研究が役に立たぬものである以上、わたしたちに残された選択肢は、無理な屁理屈を並べ立てること以外にはありえない。国家という組織はなかなかにお人好しで、わたしたちのためになぜだか、延々と予算を用意し続けてくれている。全国一億人の大切な倹約家たちを前にしてなおわたしたちを保護してくれるのはきっと、政治と研究がどちらも貴族のいとなみだった時代の影響が、現代にもまだ色濃く残っていることの証拠だろう。

 

そんなことだから、わたしたちはある意味でつけあがらされている。研究者が生かされているのはひとえに現代貴族の道楽に過ぎないのにも関わらず、わたしたちの一部は、研究なる行いが、世の中に必要だと信じ込んでいるのだ。もっとも、そう思うのも無理はない。一億人の有権者が国家予算に目を光らせている現代に、かくも大規模な無駄遣いが大手を振って行われているという現実のほうが、民主主義的にはとても信じがたい状況だからだ。

 

さて。そんな研究者にはもはや、憐みの情すら抱いてもよいかもしれない。国家の利益に寄与しないのになぜか毎年つけられる予算によって、みずからが役に立っていないという現実すら、彼らには見えなくなってしまっているのだから。深海に住む魚が視覚を失ってしまったように、現実という概念を忘れてしまった研究者たち。だがそのひとたちのことについては、今日は脇に置いておくことにしよう。

 

残りの研究者、すなわち予算獲得のために自分が使う詭弁をきちんと詭弁だと認識している研究者は、自分自身のことをどんな存在だと思っているのだろうか。一部の研究者は、積もりに積もった事務作業を前にして、みずからは事務員なのだと皮肉を言う。またべつの研究者は、みずからをニートのようなものだと呼ぶ――もっとも彼らは自分を卑下しようとしているのではなく、ニートという存在の自由さに対する羨望を、相手が持ってくれると期待しているのではあるが。

 

さて。役に立たないことを自覚しているだけあって、これらの比喩はまったく、彼らが生かされるべき理由を説明してはいない。ニートニートとして生きていくべき理由は、基本的人権の範疇に属すること以外にはまったく存在しないのだ。事務員に関しては、たしかに社会には必要な仕事だが、彼らは決して事務が得意なわけではない。大学が事務員を欲するなら、もっといい人材が、もっと安くで手に入る。

 

では。わたしたちの自己認識のありかたとして、みずからの存在をすこしでも正当化できるものはあるだろうか。事務員やニートという皮肉ではなく、貴族の名残に頼るわけでもなく、わたしたちがわたしたち自身に、わたしたちの存在を納得させられる比喩はないものだろうか?

 

なかなかに無理がある問いなのは分かっている。答えが出たとして、その答えが相当の矛盾と、恣意的解釈とを含んでいるだろうことは想像できる。国家がわたしたちを生かすことの正当性を、国民の前で説明できるような理由ではないことにもまた、気づいている。

 

だがそれくらいの留保を入れれば、この問いにはたったひとつだけ、答えと呼べそうなものがあるように思えるのだ。