老人になった日には

歴史上、世代間対立とはいつの世にもあるものだ。双方が掲げる旗印の具体的な中身は時代背景によって違うとはいえ、とにかく若者と老人は、長い間つねに争い続けてきた。それなりの数の対立はおそらく若者側の勝利で終わり、それは自分たちが正しかったからだと若者たちは主張する。時代を変えるのは若者であり、そして時代は変わるべきなのだと、彼らは老人の頑固さ以上に固く信じ込んでいる。

 

わたしたちの住む現代ももちろん例外ではない。現代における若者の意見とは、ほとんどの場合、わたしたちを取り巻いている社会の閉塞感に由来していると考えられている。すなわちこの国はとうに行き詰まっており、現状を打開するにはなにかドラスティックな変化が必要なのだけれど、変化を嫌うこの社会でそんなことは望むべくもない、という構図だ。ドラスティックな変化というのがなんなのか、若者と呼ばれるひとたちには必ずしも具体的なビジョンがあるわけではない。ましてや意志の統一などなされているはずはない。共有されているのはただこのままでは沈みゆくのみだという絶望だけで、そして民主主義が持続される限り、変化の訪れる日など来ないのだという確信がある。高齢化する社会で、老人が発言権を持ち続けるという確信が。

 

その考えが正しいのかについて、わたしは判断を下す気はない。世の全員が個人合理的に行動すると考えれば、現状はけっして覆らないという判断はおそらく正しい。だが一方で、世の中はそれほど合理的ではないという考えもまた同様に正しい。未来がどうなるかは未来のみが決めることであって、すくなくともわたしがいま、こんな日記なんかで議論しても仕方のない問題だ。ここで書きたいのはそんなことではなく、わたしたちに希望を与えるかもしれない客観的な事実が、世の中にひとつはあるということについてだ。若者の、ではなく、わたしたちの希望が。

 

そう。年功序列

 

このまま順調に人口減少が進んだならば、いつの日か、わたしたちが多数派になる日が必ずやってくる。そのときにわたしたちは若者ではないだろうが、とにかく多数派であることには間違いない。そうしてそのとき、このシルバー民主主義のシステムがまだ受け継がれ続けていれば、そのときはわたしたちの世代が初めて中心に立つ日だ。

 

そのとき、わたしたちはいったい何をするのだろうか。

 

ひとつの皮肉な可能性としては、わたしたちはなにもできない。現代の若者は「若者だ」という一点だけで互いに仲間意識を抱いていて、いまのところそれで問題は起こっていない。共通の敵がいて、そして発言権がない限りにおいては顔を出さないその手の問題は、きっとわたしたちが権力を握ったとき、無視できない世代内対立として立ち現れてくる。

 

その時代は、わたしたちにとっての希望の時代なのだろうか。まあ、期待はせずに待っているとしよう。たいていの疑問は、時間が解決してくれるのだから。