永遠の余韻の中で、わたしたちは耐える

例の感染症が市中に現れてから二年半が経った。

 

あの春にがらりと変えられた多くの物事は、まだその余韻を引きずったままだ。アクリル板、消毒液、そして非接触型の体温計などはまだ、街じゅうのいたるところで見つけることができる。どれも三年前には、どこにも置かれていなかったものだ。けれど今では、それなしの生活はどこにも存在しない。

 

さて。感染症の世への影響をわたしは余韻と呼んだが、その表現は少々デリカシーに欠けるかもしれない。というのも、感染症はいまでも現役の問題であり続けているからだ。感染症を映画に喩えるなら、現在はきっと余韻ではない。長すぎるせいで飽きられた、無限に繰り返されるクライマックスだ。間延びしているとはいえ、俳優たちはいまでもずっと迫真の演技を続けている。余韻と呼んでエンドロールと一緒にしてしまえば、真面目に演じているひとたちに失礼だ。

 

けれど、わたしたちが感じているものが余韻であるというのもまた、事実ではある。

 

いまの世の中に、クライマックスの緊張感はない。そして、その裏返しであるところの未来への希望も。最初の春のようにわたしたちは張り詰めていないし、いまを特殊な時期だと強く信じてもいない。現在を非常事態だと口では言いながら、この非常事態と呼ぶには少々長すぎる期間を、非常であるべき日常として曖昧に過ごしている。

 

現在に問題はある。ほかでもない、感染症の問題が。けれどそれは、もはや殊更に言い立てるべき問題ではなくなった。感染症はすでに日常の一部で、そして日常が日常であることに問題はないからだ。どんな世の中にも懸念はあるように、現在には感染症の懸念がある。その意味で現在とは、あくまで平常運転なのだ。

 

けれどそれでもなお、わたしたちは日常の非常性を引きずっている。

 

あの春、わたしたちはこれを非常事態だと認識した。その事態は解決しておらず、だからいまだにこれは非常のままだ。そういう風に、わたしたちは論理で認識している。非常がすでに日常になっていることには目を向けず、わたしたちはじっと耐えて待っている。まるで太陽系の軌道を外れてしまった惑星で、明けない夜はないということばを信じ続けるように。

 

コロナが終わったらこうしようね、ということばもそういえば、もう最近は聞かなくなった。

 

この日常が終わらないと、わたしたちは知っている。マスク好きの日本人がマスクを外す日の来ないことに、わたしたちは薄々感づいている。非常であったはずのものが日常となり、日常だったはずのものが帰ってこないだろうことを、わたしたちは理解している。そしてそれをたぶん、心の底では受け入れている。

 

けれど。壊れたラジオのように、これは非常事態なのだとわたしたちは言い続ける。

 

わたしたちはただ耐える。非常を日常と認めるのを拒み、永遠の余韻の中で耐え続ける。耐えるべきものの普遍性に目をつぶり、集団で自己憐憫に浸る。すべての問題を感染症のせいにして、架空の日常がいかに素晴らしいものかに想いをめぐらせる。素晴らしい日常なんて歴史上一度も存在したことはないという事実を、わたしたちは絶対に考えようとしない。

 

そして。

 

その現実逃避の先に何があるのかを、わたしたちは誰も見据えない。