恋愛小説と当事者意識

恋愛なるものは、物語のテーマとしておそらくもっとも普遍的なものだろう。

 

その理由を、ひとはこう説明する。物語の中では、登場人物の心が強く動かされなければならない。そして人間の心をもっとも強く動かすのが恋愛である以上、恋愛というテーマがポピュラーになるのは、まったく自然の道理と言えるだろう。おまけに恋愛というものは、ひとが二人いるだけで成立する。ほとんどの物語には複数人が登場するから、したがってほとんどあらゆる舞台設定で、恋愛を描くことができる。すなわち恋愛とは強く、そして気軽なのだ。

 

これはきわめて自然な説明で、わたしも納得するところである。百人一首の八割以上が恋愛の歌であるという異様な偏りだって、平安貴族の暮らしを加味してみれば納得だ。恋愛という行為の持つ訴求力は、きっとそれほどにまで強いのだろう。百人一首を選んだ藤原定家というひとはめちゃくちゃな恋愛脳だった……という可能性も、まあないわけでもないが。

 

さて。恋愛とはあくまで、個人のあいだでのみ成立する関係性だ。だれかの恋愛をほかのだれかは知らないし、自分の恋愛経験を用いて、ほかのひとの恋愛を真に言い当てることはできない。ならばせめて、さまざまな恋を体験することで一般的な経験を得よう……と言ったところで、なかなかそうはできない。それなりに道徳的な(すなわちほとんどの)ひとの限られた時間では、そう何十回も恋をするということはあり得ないからだ。

 

にもかかわらず、わたしたちは恋愛描写を良いものだと思う。それどころか、恋愛なるものを一度も経験したことがないわたしたちですら、恋の描写を喜んで摂取できるのだ。ひとによっては(想像の中の中高生男子にありがちだ)、物語の中の恋を自分の現状と比較して、羨ましがったり不平を言ったりする。しかしながらそれも、恋愛の描写を良いものだと思ってのことだ。

 

そう考えれば、実際に恋をすることと恋愛の描写を摂取することはまるきり異なるのかもしれない。現実には物語のような綺麗な恋はない……というお題目的な相違点の話ではなく、恋と恋物語に対するわたしたちの態度には、いかなるものもありえてしまうということだ。恋はしないけれど恋愛小説は読む。恋はするけれど恋愛小説は嫌い。それはどちらも、恋をして恋を読むことや恋も読みもしないことと同じように、まったく成立する態度なわけだ。

 

中学男子的な価値観で言えば、恋愛物語とは羨望の対象だ。そのまなざしには、「俺自身がこの男の位置に立ちたい」という、現実の代替品的な側面がある。そういう価値観に晒されて育った人間は、恋をすることと読むことの違いに鈍感だ。物語のような恋愛などないというお題目とて、その鈍感さの構図の中にある。なぜならそれを含む文脈は、俺が物語の主人公の位置に立つことは絶対にないのだという点で、主人公と自分との同一視を試みているのだから。

 

恋愛に幻想を抱くこと。それは普通、現実の自分が身の丈に合わない恋を願うことと解釈される。しかしながら、こういう解釈もできないだろうか。すなわち物語の中の恋に、当事者意識を持とうとしてしまうという解釈を。