非常が日常になる日

現実世界を題材にしたフィクションでは、現実との整合性が課題のひとつになる。物語の信頼性を保証するためには現実らしさが必要で、そして現実らしさを出すためにはまず、現実に違反してはならないのだ。現代の特定の地域を舞台としているのならば、特段の理由なしにそこにありそうにないものがあってはならない。舞台が過去であれば、その時代に関する詳細な歴史考証が必要となる。

 

現実的な舞台設定とは基本的に、作者が従うべき規則になる。こういうことを言うと、創作に規則などないのだと言って反論するひともいるかもしれない。そもそもが架空の世界なのに、現実との違いにどうして目くじらを立てる必要があるのか、と。フィクションはあくまでフィクションなのだから、なにかが違っていようとそれは創作活動の範疇じゃないか、と。確かに、それはそうかもしれない。けれど現実世界をもとにした創作が現実に違反するためには、わざわざそうするだけの理由が必要だとわたしは思う。

 

よく用いられる例を挙げよう。中世のヨーロッパを題材にした物語にはしばしばジャガイモが登場する(らしい)が、現実の中世ヨーロッパにはジャガイモは存在しなかった(と、よくツイッターで作品がやり玉に挙げられている)。創作だからいいじゃないか、と擁護する向きがあるようだけれど、そんなことはないとわたしは思う。それは間違いなく、物語の傷だ。物語全体を損なわない軽微な傷ではあるだろうが、傷であることには疑いようがない。なぜなら作者は、ジャガイモ自体が物語の主題である場合を除いて、ジャガイモを避けることができたはずだからだ。

 

現代に話を戻そう。いまの世の中は特殊な状態にあると、わたしたちはみな信じている。感染症の影響で世の中は歪められているのだと。そしてなによりわたしたちは、この特異な状態がいつかは終わるのだと信じ込んでいる。いつ終わるのかは誰も知らないけれど、とにかく、だ。

 

その認識は思うに、現実と創作を乖離させている。創作は現実に違反してはならないというフィクションのルールにおいて、現実とはあくまで、普段の現実のことを指しているのだ。現実が特殊な状況にあるのだとすれば、創作にその現実を反映する義務はない。現実からその特殊性を取り除いてできるものに、あくまで整合していればいいわけだ。

 

かくして。世の中の全員がマスクを着用するようになって二年半が経った今ですら、創作の登場人物はマスクをつけていない。フィクションの住人はほとんどみな、例の感染症の存在しないパラレルワールドに住んでいるのだ。そしてわたしたちはいたって自然に、そういう創作物を受け入れる。最も目立つ部分が現実と異なる世界でありながら、わたしたちはそれを非現実的だとは考えない。

 

もし世界がこのままであり続けるなら、そして現実の特殊性に関する認識がゆっくりと薄れてゆくのであれば。きっといつか、その日がくるだろう。フィクションの登場人物が、マスクをしはじめる日が。マスクのない表現が、むしろ不自然の側に後退する日が。

 

そしてその日こそ、社会変革が真になされた日となるだろう。非常が日常になった、その記念日として。