エモーションを読解する

小学生の頃、国語はわたしの苦手科目だった。

 

今思い返してみれば、その理由は明快だ。わたしには文章が読めていなかったのだ。文章というものは、それぞれの部分を明確な論理のもとにくみあわせてできるものだが、小学生の頃のわたしはまだ、そのことを理解していなかった。文中の状況証拠を繋ぎ合わせていけば答えを導けるはずの小学生用の読解問題が解けなかったのは、あくまでわたしが、論理展開を理解する能力を持たなかったからに過ぎない。

 

しかしながら、当時はそうは思っていなかった。なにせ、論理がわからなくても文章は読めるのである。すくなくとも、読めた気にはなる――細かい論理をひとつひとつ精査しなくても、文章全体で言わんとすることはなんとなくわかるからだ。わたしはわたしが文章を読めていないということに長らく気づかなかった。そして代わりに、まったく別のことに原因を求めた。

 

それは、ひとの気持ちが分からないのが原因だろう、ということだった。

 

もちろん、この理屈付けは誤りだ。ひとの気持ちが実際にわからなかったのかどうかはさておいて、国語ができるというのはひとの気持ちがわかるということではないからだ。受験問題のいくつかの設問では、たしかに登場人物の気持ちが問われるかもしれない。だがそれを解くための方法はあくまで、文中に書かれていることを読み取ることだ。言い換えればそれは決して、主人公に共感できねばならぬということではないわけだ。「登場人物の気持ちでも考えてろ」とよく国語は揶揄されるわけだが、そうやって馬鹿にするひとたちの考えるのとは違って、気持ちは書いてあるのである。必要なのは感受性ではなく、書かれていることばを真摯に読み取る能力だ。

 

さて。今でこそわたしは、小学生の頃正解できなかった記述題にも正解できるだろうと思う。それはもちろん、わたしの読解力が向上したからだ。決して、登場人物に共感できるようになったわけではない。いや、なっているかもしれないが、それだけではまだ、わたしにわかる感情に関する設問にしか答えられない。わたしの感情とは無関係に、問題は解ける。わたしがその感情を持ちうるかとは関係なく、文章とは詳細に読めるものなのだ。

 

共感せずに理解するそのテクニックは、受験問題を解く以外の役にも立っているようだ。「ひとの気持ちがわからない」というあの頃の自己評価はある意味では正しく、わたしはいまでもおそらく、共感能力に乏しいことだろう。だがそれは必要ない。共感しなくても、小説は楽しめる。わたしがこれまでに経験したことのない状況に置かれているひとの心情を、わたしは読み解き、理解し、楽しむことができる。

 

そう。感情を楽しむ方法は、必ずしも共感だけではない。感受性が低いからと言って、感情が楽しめないわけではない。恋愛をわたしはしたことがないしする予定もなく、したがってわたしは恋の悩みに共感できない。それでもわたしは、恋愛を描いた小説を楽しめる。それは、恋愛を読み解き、理解することができるからだ。

 

そして。これは最近まで気づいていなかったことだが、どうやらわたしという人間は意外に、ひとの感情なるものが好きであるようだ。