内面への説明的アプローチ

ここ二日、わたしは短編を書くことについて書いてきた。執筆という活動についてはまだまだ書きたいことがあるので、今日もその話をすることにしよう。もう飽きたという方はご容赦願いたい――もっとも、そんなひとはタイトルの時点で、すでにこの日記など読んではいないだろうが。

 

さて、例の小説はわたしが完成させた、初めての小説らしい小説だった。『小説らしい』と限定を入れたのは、わたしはこれまでにも何度か、小説のかたちをしたものを書いたことはあるからだ。

 

だがこれまでのものは、狭い意味ではおそらく、物語とは呼べないだろう。というのも、わたしがやっていたのは、わたしの空想の世界の空想の出来事を語ることではなかったのだ。そのかわりに、わたしはわたしの性格のある側面を、主人公を通してただ語ってきた。そのための、最低限のストーリーを用意しながら。

 

反面、今回の話は純粋にファンタジーである。今回の話は、わたしの頭に浮かんだ妄想の景色の実現だし、その主人公は、あくまでその景色を感動的にするために生まれてきた、ひとりの独立したキャラクターだ。だから今回は、普段とは違う。今回のストーリーはまったくわたしの経験ではないし、主人公はまったくわたしのクローンではないのだから。

 

だからわたしにとって、今回の完結には格別の感動があった。わたしははじめて、わたしならざるものについて語ることができたのだ。それはすなわち、小説を書こうと志した時点からわたしがずっと思い悩んでいた、ひとつの問題が解決したことを意味する。

 

他人の内面などとうてい理解できないのに、どうして他人を描くことができようか、という根本的な自己矛盾が。

 

答えは思ったよりも単純だった。わたしはたしかに、他人の内面を理解などできやしない。そんなことはおそらく、誰にだって不可能だろう。他人の内面がどんなふうか、そのほんとうの答えは、じっさいの他人の中にしか存在しないからだ。そして内面をつたえるためのことばや表情やしぐさは、それがありのままに伝わるほどには、器用ではないからだ。

 

だが創作においては、内面のほんとうの姿を求める必要はない。わたしのつくるキャラクターには、そもそも最初は実体がないのだから、そのほんとうの内面など存在しえないのだ。そして、存在しないものは、自由に作ってしまって構わない。必要なのはまったく、真の内面などではない。筋の通った説明さえ与えられれば、それでよかったのだ。

 

さて、わたしの得意分野のひとつは、斜に構えて皮肉を言うことだ。わたしは現実の人間を理解したり、寄り添ったり、愛したりすることには不慣れだが、その代わりに、他人の行動を解析して、内面にそれらしき説明を与えてほくそ笑むための訓練を積んできた。その訓練は、現実の人間関係を良好にする役にはまったく立たないが、どうやら、小説の役には立つようである。

 

いや、むしろそれこそ、わたしが小説を書こうと思った理由なのかもしれない。他人というものをただ分析して得られた知見が現実に役立つとすれば、それはごくたまに他人の核心を突き、精神をズタボロにさせることくらいだろう。だが、アウトプットの機会がそれだけでは、わたしは不満だったのだ。

 

この説明が当たっているのかは、わたしにはもうわからない。当時のわたしはいまのわたしとは別人だから、ほんものの答えは既に闇の中だ。だが、もし当たっているとすれば、わたしは昔のわたしの先見の明を賞賛するべきだろう。わたしの無責任な趣味は、確実にいま、なにかの役に立っている。