社会の楽しみ方、憎み方

興味を持つってことは、好きになるってことだ。

 

たとえばきみが、将棋に興味を持ったとしよう。そのとききみは、友人を募って一局交えてみるかもしれない。あるいは定跡や詰将棋の本を買って、こういう指し方があるのか、と情報収集をするかもしれない。きみが形から入るタイプなら、まずきみは高級な将棋盤と駒を買って、それだけできっと嬉しい気持ちになる。もしかするときみは、興味があると言いつつ実際に指してみることはせず、全然分からないプロの対局をただ眺めては、やっぱり全然わからないなと言って笑っている。それでもいい。興味の持ち方はひとそれぞれだから、なんでも一向にかまわない。

 

興味をもったことにきみがどういうふうに触れるにせよ、きみはそれを楽しんでいる。そのとききっときみは、その趣味のありのままの姿を愛している。それぞれの対局を、定跡を、道具を、解説を、そしていつのまにか自分の飛車が取られている経験を、きみは好きでいるはずだ。

 

さて。けれど社会という趣味に関していえば、かならずしもそうとは限らない。社会に興味があるというのは、社会のありのままを愛しているという意味にはならない。かわりにそれは、社会のありのままの姿に宿っている問題を解決することに興味がある、という意味になってしまう。ある意味社会に対する興味とは、社会を好きでいるのではなく、むしろ嫌いでいつづけるという意味になるわけだ。

 

もちろん世の中には、「好き」という意味の興味を社会に向けているひともいる。社会学者の一部はたぶんそうで(全員ではない!)、社会という面白い対象を分析しては、端的なことばで表現する。それだけ聞くと誰にでもできそうだけれど、その道の専門家というのはやっぱりすごい。社会を好きで好きでたまらないひとが四六時中社会のことを考えて生み出したことばには、ときにとんでもなく的を射ていて、そして含蓄がある。

 

そういう興味なら、わたしは持っている。わたしは社会が好きだ。わたしの愛は、社会を客観的に分析してみることに向けられている。当事者意識をともなった興味はない。でもそれは原則上、許容されてしかるべきことのはずだ。趣味の楽しみ方はひとそれぞれで、本人が楽しければそれでいいのだから。

 

唯一の問題は、「社会に興味がある」と言うと誤解されてしまうことだ。ある種のひとの中では、社会を好きでいる興味は興味ではないからだ。そういうひとたちにとって社会とは絶対に憎まなければならないもので、現状に決して満足してはいけないもので、打破しようと努力しなければならないものだ。この社会をこの社会なりに愛することなど、あってはならない。

 

そんな「嫌い」の興味を、わたしは好きにはならないだろう。社会にさんざん文句を言って、それで彼ら自身が楽しいのかもまた、わたしにはわからない。でも、まあ非難するようなことでもない。

 

楽しみ方がひとそれぞれであるのと同じように、きっと憎み方もまた、ひとそれぞれだからだ。