わかる、ひとを、つくる

世の中には、常識的な感情というものがある。それは明文化された規則ではないにせよ、ひじょうに多くの状況で、わたしに共感を要求してくる。曰く、人間の赤ん坊は無条件にかわいい。地球環境の変化は悪いことだ。ある研究はすばらしく、ある研究はくだらない。

 

こうしたことの多くに、わたしはいまいち共感できない。だからわたしにはどうやら、ひとの気持ちが分からないようだ。

 

こう聞いた誰かは言うかもしれない。「ひとの気持ちが本当に分かっているやつなんているわけがない。だからむしろ、ひとの気持ちを分からないと知っているわたしたちは誠実で、分かると言うやつのほうが不誠実なのだ」と。あるいは、「ひとの気持ちを考えろと言うのは、じっさいのところ、俺の気持ちを汲み取れという意味だ」と。

 

安心してほしい、そして早まらないでほしい。いまのところ、わたしにはキミの気持ちがわかっているつもりだ。でもわたしはこの文章を、社会への憎悪をキミと共有するために書いているわけではない。

 

二十余年を生きてきて、わたしはとうに、わたしの感覚が常識とマッチしないことには慣れ切っている。だから愚痴こそ言え、いまさら世の中への憎悪などない。世界はたしかにわたしと違う常識で動いているが、それはわたしの主観の良しあしを評価するものではない。だからキミがもし、キミ自身の常識に合わない世の中を憎んでいるとしても、わたしはキミを理解こそすれ、一緒に戦うことはないだろう。

 

さて、わたしは常識に共感こそしないが、なにが常識なのかはそれなりに知っているつもりだ。有り体に言えば、何を発言すると炎上するのかを。そして現実において、ひとは燃えなければ常識的だから、常識に共感しないことじたいはとくに問題にはならないのだ。そしてこれこそ、わたしが常識への共感に無頓着でいられる理由だ。

 

だが、小説となると話はべつかもしれない。物語を記述するうえで、作者は何人もの登場人物を描き出すことになる。登場人物はみな、それぞれに作者とはことなる常識を持っている。そして悪いことに、彼らに血を通わせるためには、作者は彼ら個々人の常識を理解し、説明しなければならないのだ。

 

それなのにわたしには、わたし以外の常識がわからない。だからわたしが書ける人物は、わたしの劣化コピーだけだ。わたしが作中の環境に置かれれば取るはずの行動以外を、わたしはおそらく書くことはできない。そして、わたししか登場しない作品に共感できるのは、おそらくわたしだけだから、わたしが最高の小説を書いたとしても、素晴らしいと思うのはわたしだけだ。

 

……というのはおそらく、あまりに悲観が過ぎるようだ。

 

世の中に、わたしが共感しない作品はごまんとある。だが、わたしが共感する作品だって、やはりいくつもある。そしてたまに、わたしは作中のほとんどの登場人物に、べつべつに共感したりもする。そういう作品の作者は、厳密にはわたしではないが、どうやらわたしにひじょうに近い常識を持っているようだ。

 

だから、わたしが何人かの人物を描くとして、わたしはその何人かを、わたしのある側面の写し見としてつくってもいいはずだ。わたしはおそらく、各側面を切り出せばまったくの別人に見える程度には複雑だから、わたしはどうにか、複数人を描き分けられるだろう。話を進めるのに、必要なだけの。

 

もっともわたしは、その方法では描き出せない人物の存在を認めなければならない。わたしは切り取り方によって姿を変えるが、とはいえ、どう切り取っても、わたしの常識に合わない人間にはなりえないのだ。だが、それでもいいのかもしれない。わたしが作品を読むとき、まったく共感できない人物は求めていない。だから、わたしによく似た読者を想定するのなら、わたしにとって非常識な人物は必要ないのだ。