会話文の分析

一昨日、わたしはふと思い立って短編を書いた。具体的な内容については、ここで説明するより読んでもらったほうが早いので割愛するが、とにかく話のすべては、二人の少女の会話の中で進んでいく。もっともあの短編に会話以外の文章はないから、小説というより、むしろ脚本だと思ってもらったほうがいいかもしれない。

 

文章の練習として、あらたな形に挑戦するのはつねによいことだから、わたしはわたしの挑戦に満足している。二日が経ってなおわたしは挑戦に酔っているから、ふと一昨日の短編を読み返してみた。きっと、あらたな発見があるはずだろうと。

 

そして、あらたな発見はあった。書いているときにはまったく気づかなかった、あまり望ましくない結果の。逆に、読んでいれば、すぐに気づいてしまう欠点の。じっさい、もしあなたがほんもののお人好しで、この文章の冒頭のことばにしたがってあの短編を読んだのなら、いまのわたしと同じ感想を抱いたであろう。

 

……そう。話の展開がはやすぎて、読みにくいのだ。

 

言い訳をしておこう。わたしは一昨日、わざと展開をはやめたつもりはない。普段の文章で行間を気にするのとまったくおなじように、わたしは一昨日の会話から論理的飛躍をなくそうと心掛けた。じっさい、わたしが会話ではなく地の文で同じ内容を書けば、あんな急展開にはならなかったはずだ。

 

さらに言うなら、文字数あたりで考えれば、むしろ一昨日の会話は中身が薄いとすら言える。じっさい、わたしに普段よりも多くを表現したつもりはないのにもかかわらず、一昨日の文字数は普段より多いのだ。

 

にもかかわらず、あの会話は明らかに、はやすぎる。小説のなかの会話はじっさいの会話とは色々な意味で異なるから、はたして現実の会話と比べる意味があるのかはわからない。だがとにかく、あの会話にはまったく現実味がない――現実の人間の物分かりは、あんなに良くはない。あれほど複雑な内容をあのスピードで理解して、自己認識を入れ替えたりはしないのだ。

 

さて、わたしは肝心なことをなにもわかっていない。会話は地の文とは異なるのだろうが、それがどう異なるのかはわからないし、自然な会話を書く方法もわからない。そもそも会話という文章のかたちが、何が得意で何が苦手なのかも、まったくわからない。わかるのは、いまのわたしはまだ、会話という表現を使いこなせないということだけだ。

 

もっとも、なにごとにも仮説を立てることはできる。わたしの何が悪かったのかこそわからないが、そのかわりにわたしは、その答えについていくつかの仮説を持っている。ひとは会話の中で、みずからの内面を直接ことばにしたりはしないから、筆者はセリフやしぐさをつうじて、そのひとの性格を暗示しつづけなければならないのかもしれない。あるいは、思想はつねにひとりの頭の中に宿るから、こまかいことばのやり取りを挟めば、個人の思想はぶつ切りになって伝わりにくくなってしまうのかもしれない。はたまた、短い会話のなかで、ひとがあたらしい視点を獲得し、その視点から話しはじめることじたいが不自然なのかもしれない。

 

いまのわたしには、それらの仮説のどれがただしいのかは分からない。大方の予想ではどれも外れてこそいないが、本質を突いてもいないのだろう。だから、わたしには訓練あるのみだ。そしてさいわいなことに、わたしはその場に恵まれている。