サイエンスの中のフィクション ①

研究とはときおり、ストーリーをつくる仕事だと言われる。自分が取り組んでいる未知の問題、導き出された未知の結果、そういうものに何らかの有機的な彩りを与えてはじめて、研究は研究として成立するというわけだ。問題に取り組めるからこそ研究の道を志したわたしにとって、これは少々、都合の悪い態度ではある。だがまことに残念ながら、ストーリーテラーとしての研究者という議論には、やはりどうにも無視しがたい正当性が宿っている。

 

もっとも、正当性と言っても部分的なものである。ストーリー性を研究の中心に据える研究者たちとは違って、わたしの譲歩は、学問の発展という正義に根差してはいない。つまるところ問題というものはいくらでも自由に作り出せるものであって、放っておけばすぐに、無秩序な乱立そしてスプロール化を引き起こしてしまうのだ。各自が思い思いに作った思い思いの問題を解き、それらすべてに同一の価値を認め、しかるにだれもそれらを顧みないのであれば……さすがにその世界には、もうすこし秩序というものが欲しくなる。

 

その意味で、ストーリーとは程よい制約だ。アカデミアという場がある種の秩序を保ち続けるための、問題そのものの評価基準。しかしながら完全に不自由ということもなく、まったく新しい考え方にだって、広く認められるための一定のチャンスがある。そのチャンスを掴むために研究者に必要とされる能力は、「問題を解く」という最重要の能力からはだいぶ外れたところにあるけれども、それでも少なくとも、アカデミアの秩序と自由をほどよく両立させる役には立っている。

 

そしてストーリーをつけるという行為は、分野によってはかなりの創造的自由を手にしているように、わたしには見えるのである。

 

実際の研究のことはいったん忘れて、テレビの中の研究者のことを思い出してみよう。ニュースに出てくる現実の研究者でもいいが、オカルト系のドラマに出てくる奴らのほうがずっといい。とにかくそういう、地に足をつけるということばすらも忘れてしまったような、創作の中の典型的なマッド・サイエンティストを想像してほしい。

 

彼らの特権は、いかなるストーリーでも語りうることだ。地球人類全員をサイボーグ化するのでもよい。百発百中の惚れ薬をつくるのでもよい。太陽系を粉々に破壊しても良い。実現可能性はおいておこう。倫理の問題も無視しよう。重要なのは、研究者とはそういうド派手な夢を語ることが許されている……いやそればかりか、推奨されているという事実である。

 

現実の研究者とて大差はない。特に宇宙工学者なんていうのはロマンチックの塊で、やれ宇宙にホテルをつくるとか、月にまで伸びるエレベーターを建設するとか、そういうことを平気で言ってのける。そんなものが実現可能だとは誰も思わないし、そんなものの一部の技術を開発することが、とうてい何かの役に立つとも思えない。だが彼らをとりまく秩序は、そうやってぶち上げられたフィクションを、正当なストーリーとして許容しているのだ。