相対化のパラドックス

ひとの意見はさまざまだから、世の中にはさまざまな活動がある。そしてせっかく活動をするなら歴史の正しい側でありたい、というのは、世の慈善家たちが共通して持つ願いであるだろう。

 

だが。歴史の正しい側ということばが使われるのは、その手の純粋な善の文脈ではない。むしろほとんどの場合、自分の正しさを妄信するだれかを揶揄したい場合だ。正義とはすなわち迷惑のことなのに、正義を語る奴らはそれが分かっていない、というわけだ。

 

この事実からは、ひとつの確固とした考え方が読み取れる。すなわち自分が正しいかどうかの判断を留保することは、自分が正しいと信じ込むことと比べてはるかに賢明である、という価値観だ。自己はつねに相対化されていなければならない。そしてより高度な相対化を行うほど、ひとは偉くいられる……と、揶揄する側は考えるわけだ。

 

その考えを示す意味では、さきの段落じたいがいい例だろう。そこでわたしは、自己を相対化する自分をさらに相対化したからだ。自分の正しさを相対化したほうが無条件に偉い、というのはやはり盲目な価値観で、その構造自体に目を向けることこそが真なる相対化だ、というわけである。

 

この二段落の構造じたいもまた、さらなる相対化だ。相対化じたいを相対的にとらえることに対して、わたしは言及したからだ。さらに前文を加えれば次の相対化が加わり、この辺りでもう、相対化は実体を伴わなくなってくる。機械的な相対化の昇鎖列は、わたしが認識できる限り無限につづいてゆく。さらにはその無限性さえもまた、相対化される。

 

……という議論が無意味なことには、もうほとんどのひとが気づいていることだろう。

 

相対的であるほどに偉いという価値観の先にあるのは、究極の偉さではなく完全なる虚無だ。名付けて、相対化のパラドックス、とでも呼ぼうか。それを避けるにはどこかで、相対化をやめなければならない。次のメタな視点が存在しえて、かつ認識可能なのにもかかわらず、あえて乗り移らないという選択をわたしたちは取る必要があるのだ。

 

では、それはいつか。

 

経験的に、答えはかなり低いレイヤーにある。

 

ゼロ段階の相対化。すなわち、自分を正しいと信じ込むこと。相対化という概念を知るすべてのひとから馬鹿にされるレイヤーだが、実際のところ、世の中のかなりの部分を回しているレイヤーでもある。信念の力とは偉大であり、世の偉業譚の多くは、相対化の技法によっては到底出せないであろうパワーに満ち溢れている。

 

一段階の相対化。偉業の多くが信念によってなされるとはいえ、信念はいつも暴走と隣り合わせだ。間違いを間違いと認めることは正しい行いのために必要不可欠であって、その役割は一段階の相対化によって果たされる。熱血の主人公の隣にいる、冷静沈着のブレーン。彼らはみずからの相対化の技法を、情熱のコントロールに有効利用している。

 

反面、二段階以降の相対化が役に立つところは想像しがたい。というのも、それはきわめて簡単で、機械的に取れる態度だからだ。一段階の相対化を覚えてしまえば、自分自身を相対的に見ることはたやすい。それゆえそれ以降の相対化は、本質的には一段階の相対化と変わらないことをしているわけである。

 

もっとも偉い態度とはなにか。以上をまとめれば、それはおのずと見えてくる。

 

一段階の相対化。ひとつの有効な態度の上に立ちつつ、自分自身も有効であるような唯一のレイヤー。これこそが間違いなく、最高の態度であるだろう。絶対性と相対性の社交ダンス。その態度は書き下せば、以下のことを意味している。

 

絶対性に対しては相対的であれ。だが相対性に対しては、逆に絶対的であれ、と。