罪状:思考

世の中のほとんどすべての問いに明確な正解はない。幾万もの哲学者が、あるいは幾億もの在野の哲学者が考えてきた問いなどいくらでもあるが、その中に解決した問いと言うものはほとんどないと言っていいだろう。解決不能な問いに立ち向かっては玉砕していく、という典型的な傾向を知っているにもかかわらず、個々の人間はおそらく、全体に負けず劣らず無謀だろう。これまでのどの人間にも解けなかったという明確な解決不能の証拠を持ちながら、自分にはその難問が解けるのだと彼らは信じて疑わない。

 

とはいえ、人類は無謀さのなかにも統計学的な理性を隠し持っている。自分がいま挑んでいる問題に明確な正解はないのだということに、ほとんどの哲学者気取りは気づいているはずだ。気づいているのにもかかわらず完全解決への無謀なる挑戦をやめはしない、というのが人類の矛盾点ではあるのだが、それはまあ、人間全体への博愛の態度がいかようにも赦してくれるであろう。とにかく人類は、明確な正解のない問いだと知っていながら、原理上尽きることのない議論を未来永劫にわたって継続するわけだ。

 

どうしてそういうことをするのか、という問いはおそらく、珍しく簡単な部類の問いだろう。人類はとかく思索とか議論というものが好きであり、暇さえあれば、目の前の事象についての意見をまとめ上げることに気を取られてしまう。なにが起こっていようが、人類はとりあえず考える。自分なりの結論を出そうと試みる。結論の出ない問いである以上、出した結論は何らかの誤りを含んでいるに決まっているのだが、そんなことは重要ではない。重要なのは結果ではなく、考えるプロセスのほうだ。思考の報酬とは結論ではなく、考えるという行為そのもののもたらす快楽のほうだ。

 

さて、一般的人類の例に漏れず、わたしも日々いろいろなことに思いをめぐらせては時間を無駄にしている。わたしは哲学の論文を書くわけではないし、書くための知識もわたしにはないから、そういう知識を直接的に役立てる先は存在しない。哲学の論文を書けば役立てたことになるのか……というのはまた結論の出ない問いのひとつだが、すくなくともわたしの生活の中に、そういう機会のないことだけは疑いようがない。結果としてわたしは、考えたことの一部をこうして、だれも読まない日記としてかたどっているわけだ。

 

それはまごうこと無き、完全なる無駄である。だからして、わたしには罪悪感がなかったわけでもない。罪悪感を解消するためのあまたの言い訳によって、現在のわたしはそんな負の感情から解放されてはいるが、だからといって無駄が無駄でなくなるわけではまったくない。むしろある意味では、わたしは悪化の一途をたどっている――無駄という罪を犯しておきながら、罪の意識すらも薄れてしまった存在として。

 

おそらくこれは、わたしの原罪とでも呼ぶべきものなのだろう。わたしは生まれながらにして思考を背負った。そして思考がなんの益ももたらさないことを知っていながら、わたしは出ないはずの結論を考え続ける。そしてわたしは思考という罪に、一生のあいだ付き合い続けなければならない。わたしがわたしである、その限りにおいて。