国民の擬人化

わたしたちはときに、なにか悪いことをした国家を非難することがある。

 

代表的なのは、戦争をはじめた国だ。帝国主義の時代ならいざ知らず、現代の国際社会において、政治的目的の達成に武力を用いるのはタブーとされているからだ。いかなる開戦行為をも非難する……という態度が絶対の正義なのかはともかく、十九世紀と違って、現代はそういうルールでできているのだ。ルールに違反したのだから、非難されるのは仕方がない。

 

だが国家という主体はあいまいだ。すくなくとも、明確な非難を向けるに値する、具体的な人格は存在しない。国家には国境線という概念があって、それはたしかに、国家の領域を明瞭に定義しているかもしれない――だがわたしたちの非難は、なにもその国家の土地へと向けられているわけではないのだ。

 

では、国家を非難するとき、わたしたちはいったい、具体的になにを非難しているのだろうか。

 

多くの場合、おそらくその疑問は、国家を擬人化することで解決されている。「アメリカの考え」「ロシアの意志」というように、あたかも国家が人格を持つかのように語るのだ。だがこの態度は正確とは呼べないだろう。なぜなら国家とは断じて、意志を持つ個人ではないのだから。

 

より興味深い立場は、国民に責任を押し付けることだ。こと民主主義国家――すなわち、抑圧や不正行為がある程度に抑制された選挙システムを持つ国――においては、次のような議論が成立するように見える。「国家を運営する主体を選んだのは、その国の国民である。だからその国の国民にも責任の一端がある」と。

 

いったいこの議論の、なにが面白いのか。わたしから見ればそれは、国民という主体が責任を持たせるに値すると思われているところだ。

 

意志はつねに、個人の中に宿る。個々人がだれに投票したか、これは間違いなく、責任を問うことのできる個人の意思だ。だが国民という主体は、国民という集団は、けっして意志を持つ個人ではない。国家が個人ではないのと、まったくおなじように。

 

にもかかわらず、国家ではなく国民になら責任を問えると考えてしまうのは。それはおそらくわたしたちに、国民を擬人化してしまう習性があるからだろう。

 

国民性、という概念がある。その国の国民が一般的に持っている傾向にある性格、と言うような意味だ。アメリカ人は分厚い肉を食い、豪快に笑う。ロシア人は宿命論者で、そして、権力との付き合い方を熟知している。エスニックジョーク。国民を擬人化する営み。海に飛び込んだらヒーローですよ。みんな飛び込んでますよ。飛び込むなと言われました。

 

その国に友人がいれば(もちろん、いなくても)、国民性という概念は過度な一般化であることが分かるはずだ。あたかも全員が同じ意志を持つかのように国民を擬人化するのは、愚かな試みだと気づくはずだ。だがそれでもわたしたちは、そういう単純な認識から抜け出せない。

 

話を戻そう。国家に責任を持たせられないのになぜ、国民には責任を持たせられるのだろうか。

 

それはおそらく、国民は国家よりはるかに擬人化がしやすいからだ。全員が単一の意志を持つ、完全に一様な集団として。