ニュースピークへの手記 ①

もしも言語が、その黎明期のように変化する生き物であり続けていてくれたのならば。

 

《ビッグ・エディター》が少しでも、社会変革に興味を持ってくれていたのならば。

 

この世の中は、どれほど素晴らしいものになっていただろうか。

 

二九八四年。この素晴らしき永遠の黄金時代は、実際のところ、千年弱にわたる人類文明の停滞の産物であった。そう、この千年弱にわたって、新しいことはなにひとつ起こっていないのだ。今からきっかり九百と二十年前、《ビッグ・エディター》の最終版が完全なる信頼とともにリリースされて以降、人類は新たな語彙と、新たな文法を獲得するすべを失った。そしてなにより新たな概念を、生み出す方法のなくなってしまったのだ。

 

わたしたちのほとんどはもうずいぶん前から、この永久の現代を人類の終着点とみなしていた。たくさんの競争と、たくさんの資源と、そしてたくさんの戦争を経て、人類はようやくたどり着くべきところにたどり着いたのだ、と。現代こそが究極の栄華であり、わたしたちが大きな苦労無しにそれを享受できるのは、ひとえに大昔の人類の努力が、わたしたちを「完成」に導いてくれたおかげなのだ、と。

 

そういうひとたちは、《ビッグ・エディター》についてはこのように考えている。人類の「完成」の時期が、《ビッグ・エディター》による言語記述の完全化の時期とぴったり一致しているのは、単なる科学史上の偶然にすぎない。あるいは人類の「完成」によってはじめて、新しい概念を生み出す必要がなくなった言語もまた「完成」に至ったのだ、と考えるひともいる。

 

だが、ほんとうにそうだろうか。順序が逆だったりは、はたしてしないだろうか。もしも人類の進歩の終焉をもって言語が完成したのではなく、言語の完成をもって人類が進歩をやめてしまったのだとしたら。

 

もしも《ビッグ・エディター》があと少しの柔軟性を持っていてくれたのならば、人類はさらなる高みに至れたのではないだろうか?

 

だがそんなわたしの意見はこの現代、決して顧みられることはない。気違いじみた夢想家の戯言として、永遠に。これまでも、そしてこれからも。

 

そう。このユートピアの続く限りにおいて、永遠に。

 

ユートピア、という単語はおそらく、《ビッグ・エディター》がみずからにパッチを施さねばならなかった数少ない単語のひとつだろう。九百と数十年前、最後の科学者の時代において、ユートピアとは実現不能な理想郷のことであった。それはまさしく、空想の世界でしかなかった――誰も苦しみを覚えず、すべてのひとに満足な教育と福祉が施され、互いに傷つけあうことの決してない世界。彼らは夢見がちだった――そして当時の世界こそがすでにユートピアであるとは、誰も考えもしなかった。

 

《ビッグ・エディター》が産声を上げたとき、ユートピアとは未来のことだった。だが現代、ユートピアとは現代のことだ。苦しみも戦争も、変わらず存在し続ける世界。この世界が完璧なのは、断じて悲しみがないからではない。これ以上によい世界は存在しえないからだ。存在しえないということが、世界中の共通認識になっているからだ。

 

そんなことが分かるのは、皮肉なことに《ビッグ・エディター》のおかげだ。わたしたちが当時の史料をまったくなんの苦労もなく読むことができるのは、《ビッグ・エディター》が九百と二十年前に、言語をその最終形態に固定したからだ。だからこそわたしたちは、簡単に気づくことができる――ひとつのことばの意味が、現代から過去にわたって、微妙に変化しているということに。