演繹的研究との対峙法

このまえわたしははじめて、ひとつの短編を完結させた。それはわたしにとって、すばらしく新鮮な経験だった。だからこそわたしは得意になって、そのあと三日にわたって、短編を書くとはどういうことだったのか語り続けてきた。

 

だが所詮、わたしは短編一本を書いただけだ。だから、完結したことに舞い上がったわたしが、短編というものについていかに大層な分析をしたところで、それは素人の戯言に過ぎないだろう。

 

にもかかわらず、わたしは三日間、すべてを理解したような論調で短編を語ってきた。わたしには物事を過度に一般化する悪い癖があって、過去三日のあいだ、わたしはその癖をいかんなく発揮してしまった自覚がある。だから、仮に昨日までの日記を読んだあなたが、何を偉そうに語りやがって、という感想を抱いたとすれば、それはまったく正当な感想である、と言うほかはない。

 

というわけで、そろそろ短編の話からは離れて、別の話題にうつることにしよう。短編と似ている、あることの話題へと。正確に言えば、短編そのものとではなく、短編に対するわたしの素人分析と似ている話題へ。

 

さて、わたしは短編を書くのを、帰納的な作業だと考えている。短編を書くときは、まず作者はゴールを定める。そして、そのゴールに至るまでの道筋を、論理的に過不足なく組み立てていくのだ。

 

そしてそれは、数学の理論研究に似ているように思う。研究をするとき、まず研究者は解くべき問題というゴールを決める。そして、その問題を解くための道を、定義と証明をつうじてかたちづくってゆく。もっとも、証明できる主張だけが使えるという数学の縛りは、小説のストーリーのそれよりはるかに不自由だから、ゴールへの道を見出すのは小説よりも困難だろう。だが小説には小説の難しさがあるし、その点を本題にするつもりはないから、今日は深くは立ち入らないことにしよう。

 

とにかく、仮にわたしが、解くべき問題に至る証明の道筋を見つけられたとしよう。さすればわたしには、実際にそれを書くという作業が待っている。その作業もまた、小説の執筆に似ているように思う。どちらもやるべきことは分かっているし、やれば進みはするが、それなりに頭を使う繊細な作業だ。

 

その作業が済めば、晴れて論文という作品の完成だ。それを投稿し、運よく査読者のお眼鏡に構えば、わたしはその作品をお披露目する機会を得ることになる。わたしは会議の席で、わたしの作品について語ってみせるのだ。

 

さて、このときになってようやく、ひとつの認識の問題が顔を出す。それは、世の中の一部の人は、研究を帰納的ではなく、演繹的ないとなみだととらえていることだ。彼らにとって研究とは、適当に決めたゴールへと一直線に進むことではない。既存の結果という文章の上に、なにかひとつ気の利いた文を付け足すことだ。

 

わたしは会議の席で、いろいろな質問を受ける。ひとつ、証明の詳細を教えて欲しい。わたしがその証明を開発したのだから、いくらでも答えられる。ひとつ、その問題の応用はなにか。好みの質問ではないが、まあ答えられるだろう。わたしの定理を現実世界に落とし込めというのは、すなわち、わたしの定理が必要になるようなストーリーを、ひとつ構築しろという意味だからだ。

 

むしろ、困るのはこんな意見だ。「○○の分野に発展させてみる価値があると思います」 なるほど構想段階なら、すばらしく有益なアドバイスだ。

 

だが発表時点では、論文という作品はもう完成している。だからわたしにとって、それ以上の発展は蛇足なのだ。たとえるならそれは、クライマックスを終えた短編に、新たなクライマックスを付け加えるのに似ている。その短編は、最初のクライマックスをめがけて構成されているから、続きの話を用意したところで、短編は面白くならない。むしろ、間延びさせるだけ。

 

さて、わたしはそれでも、質問者が親切心からアドバイスをくれているとは思っている。もしかすると、他分野の知識をひけらかしたいという自己顕示欲もすこしは混じっているかもしれないが、それでも質問者は、わたしに新しい知識を提供してくれようとしているのは間違いない。ただ、研究とはなにかという問いに対し、わたしとは違う考えを持っているだけ。

 

だから、わたしのとるべき態度はひとつだろう。わたしはわたしの作品を変える気はないから、そのアドバイスにはあいまいに答えておく。だがわたしはそれを覚えておいて、つぎにまったく違う研究をするときに、役に立つかどうか試してみる。

 

というわけで、わたしは演繹的な研究はできないが、演繹的な他者の考えを取り入れることができる。そしておそらく、それこそが発表という体験の唯一の価値なのだ。なぜなら、もう書き終えてしまった論文の中身は、変わることはないのだから。