エモさのパワー

「ヤバい」「エモい」――などといったことばは常用されるようになってもうかなりの年月が経っているし、これらが数々の批判にさらされる様子も、また幾度となく見てきている。批判の内容は年を経ても変わることはなく、それはひとえに、成立する批判がただの一通りしかないからに他ならない。すなわち、感情の解像度を上げろという批判だ。

 

これらの曖昧な言葉がなにかを評するときに出てくる表現だとするなら、わたしはその批判に賛成だ。他人の言葉遣いにとやかく言う気はないが、わたし個人としては、ものごとの評価を「ヤバい」で誤魔化したりはしたくない。ことばを使うことの喜びとはすなわち、状況のいかんに合わせて適切なことばを選び抜く作業の喜びのことだ。目の前に横たわるシュールでアドホックな状況、それに奇妙なまでにピンポイントで当てはまる表現を見つけた瞬間こそ、わたしの言語野はもっとも勢いよく、大量のドーパミンを放出しているのだろう。

 

……と、少なくともわたしは感じている。ことばを愛するものとして、表現という行為には、単なる情報伝達以上のものを求めたいのだ。

 

しかしながら、なにかをつくる側に回るのなら話は別だ。文章を書くとき、わたしは読者に、特定の感想を抱いてほしいとは思わない。わたしが書きたいと思っている文章は、「エモい文章」以外に言いようがない――それ以外の表現、なにかを評する場合に使うべきだったより詳細な表現は、単に、全部嘘だ。読者にはなにを感じてもらってもいい、喜ぼうが不快に思おうがどちらでもいい。人を傷つけるのもオールオーケー。だが、無であってはならない。なにかを感じさせる文章では、少なくともなければならないのだ。

 

さて、ここに矛と盾がある。矛とは文章を書くわたし、盾とは文章を評するわたし。といってもべつに最強の矛と最強の盾ではないから、両者は共存可能だ。わたしが書いた文章をわたしが読んだら、「エモい」ではない何らかのことばを残すだろう。

 

そして、それで構わないのだ。この矛は、文章を書くわたしは、読むわたしになにかを感じてさえもらえればいいのだから。読むわたしの精神が破壊的な影響を受けつつ、なんとか残った理性で、あれこれと中身を評する。これこそが、理想の矛と盾というものだ。

 

これらを総合すると、わたしが求めている「エモさ」の、わたしなりの言い換えが導かれるように思える。正確性を失わず、かつ「エモさ」という、汎用的な評価からは逃れた言い換えが。

 

それは、パワー。

 

文章にはパワーが必要だ。テクニックはなんでもいいがとにかく、ひとの精神を捩じ伏せるパワーが。自分自身を含めた、すべての人類を殴り倒すだけの感情の暴力。そう。理想的なことばとは、もはや暴力と区別がつかないのだ。

 

わたしはマゾヒストなのだろうか、そうした文章を読むのは好きだ。ことばのパワーに殴り倒されるのが性癖だ。そしてだからこそ、同じ快楽を他人にも味わわせてやりたいと思っている。マゾヒズムから派生したサディズム

 

そんなことが可能なのかは、もちろんわからない。難易度の高いことは、分かっているつもりだ。だが、目指さざるを得ない。

 

それがわたしにとって、ことばを使うということだからだ。