振り返り:脳の容積

書くこと。あるいはより一般には、表現すること。

 

すべての生物のなかで、そんなことをするのは人間だけだ。

 

表現こそ、人間が人間である理由だ。表現する方法があるからこそ、ひとは他の個体になにかを伝えられる。表現するからこそ、ひとは自分の考えを客観視できる。論理や感情とは元来いっときの脳内現象にすぎず、だがいったん表現されれば、それらは永久に、思い出され参照される可能性を獲得する。

 

表現は文明の源だ。表現によって人類はつながりあい、ひとりではなし得ないことをなす。表現によってひとびとは感情を共有し、一枚の絵は全員に共通する心象風景へと昇華する。ルールは表現されるからこそ拘束力を持ち、秩序は文書表現によってもたらされる。哲学は表現されるからこそ価値を持ち、われわれは古今東西の思想を、自分の問題として受け止めることができる。

 

では、逆に。

 

もしもあらゆる表現が禁止されたのなら。記すことも、誰かに話すこともできないのだとしたら。思ったことは、単に頭の中に蓄えておく以外にないのだとしたら。

 

人間はどれだけのことを考えられるのだろうか? 個人の脳という容積には、いったいどれほどの量の思想を溜めこむことができるのだろうか?

 

今日はそんな、理論的な問いからはじめてみよう。

 

日記をはじめた頃のことを振り返ってみよう。当時のわたしは、脳を爆発させる寸前だった。限界まで溜め込んだ思想は入れ代わり立ち代わり、意識下に立ち上ってはまた戻っていく。思考の大渋滞のさなか、運よく見つけた毛ほどの隙間を、また新たな思考が埋めてゆく。

 

内圧は出口を求めた。だからわたしは日記をはじめた。かわりばんこに登ってくる思考をひとつひとつ開放し、脳の混雑を緩和するために。かくしてエディタの上には、さまざまな思考が吹き付けられていった。高まりすぎた脳の圧力を動力源として。

 

脳と外気の圧力が同じになるまで、それは続いた。溜め込まれた思考を吐き切って、わたしが楽になるまでだ。毎日書くとなると、さすがに放出のほうがペースが速いから、系はいつか均衡に至るようになる。思考はいつか、完全なる行き場を得ることになる。

 

問題は、それがいつか、ということだ。言い換えるなら、わたしの脳にはどれほどの思考を溜め込めるのか、だ。

 

果たして。それはたったの、二週間分だった。

 

考えるというプロセスを、一歩引いて見てみよう。わたしが考えていると思っているとき、わたしの脳は実のところ、同じことばを繰り返している。ひとつの認識、それを補強するためのさまざまな具体例。ひとつのことばに何度も納得し、悦に入る作業。

 

すでに構築されたすばらしいなにかを、さまざまな角度から眺めまわすこと。それは実に、わたしを考えている気にさせる作業だ。鑑賞のための時間は、わたしの認知を狂わせる。わたしは現在進行形で、なにかを作り出していますよ、と。

 

だが書いてみれば、わたしがいかに、ひとつのことしか考えていなかったかがわかる。なにせ、数行ですべて終わってしまうのだから。

 

文章の本質は、文字数には関係ない。その意味で文字数とは、きわめて無機的な指標だ。文章は長いからいいというわけではない――単位のために、レポートを書かねばならぬ場合を除いて。

 

だが思考を量的に評価するのなら、ものすごく有用な近似となる。とりわけ、脳の容積を測りたいといった場合には。

 

二週間、かけることの約千字。それがわたしの脳の限界だ。これが多いのか少ないのか……は、実のところ気にしても仕方がない。物理的な制約、意志ではどうすることもできない。

 

反面。

 

一年間、かけることの約千字。これがわたしが、今年考えたことだ。二週間と比べて、数十倍。書くことでひとは、思想を何十倍にも膨らませることができる。

 

だから。そう。あらためて、わたしは実感する。

 

書くこととは、かように素晴らしいことだ。