セルフ・エコーチェンバー ②

エコーチェンバー現象という名前が、最近よく聞かれるようになった。

 

エコーチェンバーとは元々、音の反響に関わる物理現象に由来するらしい。読んで字のごとく、チェンバー(小部屋)の中に閉じ込められたひとは、自分自身の立てる音の反響を聞くことになる。小部屋を閉鎖的なコミュニティに、立てる音を表明される意見になぞらえれば、音の反響とはすなわち、自分のものと似たような意見のみを聞き続けることだ。こうやって発生する正のフィードバック効果を、エコーチェンバー現象と呼ぶ。

 

さて。エコーチェンバー現象と呼ばれるものじたいは複数人からなる集団、すなわち「界隈」のレベルでの話だ。しかしながらよりもとの物理現象、すなわちエコーチェンバーの原義に近いのは、チェンバーの中にたったひとり、わたしひとりだけがいる場合だろう。なにせ、小部屋の中で跳ね返ってくる音とは、ほかならぬ自分自身が立てた音でしかありえないのだから。音を立ててそれを聞く際限のないフィードバック効果は、どの時点でも常に、わたし自身の手によっておこなわれているのだから。

 

そう考えれば、この正のフィードバックは、わたしの意思次第で止めてしまえるものなように思えてくる。わたしが書き続けることによって意見が先鋭化し、そしてそれ以外によっては先鋭化しないのであれば。なおかつわたし自身が、制御不能なほどに先鋭化したわたしを恐れるのであれば。

 

わたしは単に、書くのをやめればいい。

 

だから問題は、わたしにその気があるかどうか、という点にかかっている。ゆるやかな自殺衝動を自殺衝動と知って、わたしはいますぐに足を洗うのだろうか。それとも、いずれ訪れるであろう完全な発狂へと、単純に突き進んでいくのだろうか。

 

わたしはわたしを止められる。

 

わたし以外に、わたしを止めるものはない。

 

わたしは柔軟性を失いたくはない。あらゆる他人の考え方を、現実に存在しうる考え方として尊重していたい。自分自身のものを含めて、あらゆる考え方を平等に疑い続けていたい。自分自身で構築した論理を自分自身で破壊しつづけ、常に一切の権威が、わたしの頭の中に宿らないようにしておきたい。

 

この勢いで書き続けてなおそんなことが可能なのは、いったいいつまでだろうか。

 

ある意味では、フィードバックとはわたし自身への余命宣告だ。ゆるやかに過激化していく日記、きわめて緩慢だが指数関数的な先鋭化。おそらくまだ、わたしはわたしを疑うことができる。しかしながら、いつわたしが我を失ってしまうのかは定かではない。わたしがいつ、「真実に目覚めて」しまうのかは。

 

そのときが訪れたなら、きっとわたしは気づかないだろう。わたし自身を疑うことを忘れたわたしは、わたし自身を完全な正気だとみなすだろうからだ。

 

あるいは、もう既に。

 

だから。この文章は、まだわたしの狂気を狂気だと思っているわたしからの、すこしはやめの遺言状なのだ。