真実の犠牲の上に

わたしが思いつくことばは、わたしが思っていることだけではない。

 

わたしたちの思考はあいまいだ。思考はしばしば、ことばによってのみなされるものだと言われるが、それは誤りだとわたしは思う。わたしたちの根底にある思考の流れは、おそらく、ことばなどよりよほどプリミティブなものだ。

 

その証拠に、わたしたちはしばしば、思考をことばにするのに手間取ることがある。言いようのない感情。最適なことばがあると分かってはいるが、それでも出てこないそのことば。まちがいなくそのことばで表されるべきわたしの思いは、類語辞典を引き漁ってはじめて、ことばになることがある。

 

それでも、ことばは意思伝達のための形式である。ことばは思考を直接あらわしたものではないが、思考を翻訳したものではあるのだ。わざわざ翻訳を必要とするその不自由な形態は、それでも、ひととひととの間で思考を共有するためのもっとも自由な形態だ。

 

さて、他者との意思伝達をおこなわなくても、依然ことばは有用だ。なぜならことばは、他者とのみならず、わたし自身との間での意思伝達の手段でもあるからだ。

 

なぜそんな必要があるのかについては、おそらく書いておく必要があるだろう。わたしはわたしなのだから、翻訳されて情報の落ちた思考を、わざわざ参照して思考する必要はないのではないか。それはもちろん、自然な疑問だ。

 

たしかに理想的には、わたしはことばを経由せずに思考すべきだ。わたしの根底を流れる思念を直接撚り合わせたものこそ、真なるわたしの姿のはずだ。だがその作業は、ことばを経由するよりはるかに難しい。思念はあまりにもとらえどころがないから、わたしの考えたい通りには考えてくれない。

 

というわけで、ことばは考えるための有用なツールだ。先に述べたことと矛盾するようだが、ではこう言い換えてみよう。思考は、必ずしもことばによってなされるものではない。だが、複雑な思考や、方向性を持った思考や、目的を持った思考は、まず間違いなくことばによってなされるだろう、と。

 

そのような思考は簡単だ。とらえどころのない思念をとらえる努力のかわりに、行先の定まらぬ思考を掬い出す工夫のかわりに、わたしたちはただ、ことばという形式をいじくり回すだけでよい。いまだってわたしは、わたしと向き合う困難から目を背け、ことばの論理を弄んでこの文章を書いている。

 

だがもちろん、そんな思考は危険だ。ともすればそれは、わたしの真の思いからはかけ離れて、浮世離れした結論を導き出してしまうことがある。わたしの深層に訊ね直す努力を怠らなければ、間違いなく間違いだと分かるはずの結論を。

 

ことばによる思考の簡便性は、真実の犠牲の上に成り立っている。そしてそれを繰り返せば、おそらく真実は歪められるのだろう。わたしの深層は、わたしがなにかを見ることですら変化する。ましてや、わたし自身が考えたものを知ってしまえば。

 

むろんそれは、悪いことではないのかもしれない。いやむしろ、面白いことなのかもしれない。わたしがおなじわたしであることに、おそらくわたしは飽きているだろうから。

 

だからおそらく、わたしが気を付けるべきはひとつだけなのだろう。

 

ひとつ、どんなことばもまったく真実とは限らない、と常に心に留めておくこと。