テキトーの言い訳

日記という媒体の魅力のひとつに、内容の要求値が低いことが挙げられる。

 

定義上、日記とは一日に一本のペースで書くものだ。そうなっていない日記もあるが、あくまで定義上はそうだ。かりに百歩譲って、数日に一度しか更新のないものを日記と呼ぶことを許すとしても、べつに筆者は、数日間文章を練り続けていたわけではない。ただ単に、面倒くさかっただけだ。

 

だからわたしたちは、日記の文章に多くを求めない。まともな中身のある文章を書くには、一日はあまりに短すぎるのだ。しかもわたしたちは、ただでさえ短すぎるその一日という期間を、日記に丸ごと費やせるわけですらない。もしそんなことをするひとがいるなら……そうだな。日記などすっぱりとやめて、さっさと生活に集中したまえ、とでも言っておけばいいだろうか。

 

だからこそ逆説的に、日記とは自由な媒体だ。時間の制約こそタイトではあるものの、内容の豊かさの面では、日記はなにものにも縛られない。いくらくだらない文章(「くだらなくて笑ってしまう文章」、ではなく、本当にくだらない文章だ)を書いたとしても、わたしたちはひとつの、万能の言い訳を使えるわけである。一時間で書いたのだから、仕方ないだろ、と。

 

さて。この文章もまた、そういう言い訳のうえに成立しているわけなのだが……まあ、メタな話はよしておこう。今日したい話は、その真逆の文章についてだ。すなわち、テキトーに書いたのだから仕方がないだろ、という言い訳の成立しない領域の。

 

論文とか小説とか、そういうものがこれにあたる。日記と違って、それらに向けられる目線は厳しい――最善を尽くすことは単に、義務だ。全体の構成は言わずもがな、行き当たりばったりで書いていいものではない。一文一文に至るまで、全体のなかでの働きが吟味された文章。それは内容を評価するまえの前提条件であって、評価の対象にはならないのだ。

 

そういう文章を書くのは、日記とはまるで異なるかもしれない。日記は一度書いたら書きっぱなしだが、論文も小説も校正をしなければならない。校正にもいろいろあって、ときにはその段階で全体ががらりと変わる。ほとんど全体を書き直すこともあるし、仮にそうなれば、最初にあった文章はお蔵入りだ。

 

そして真の文章力と呼ばれるものは、そうやって何度も読み返しながらも、精密に文章を組立てていく能力のことだろう。

 

そう考えると、こうも思えてくる。日記には何の意味があるのだろうか。一日千字、日記という筋トレを欠かさなかったところで、わたしの文章ははたしてうまくなっているのだろうか、と。

 

もちろん、分からない。だがひとつだけ言えるのは、素早く日記を書くという一点において、わたしはそれなりの成長を遂げている、ということだ。