確率を超えたコンタクト ②

現代は有名人と一般市民のあいだから、人数比以外のあらゆる壁を取り去った。わたしたち庶民が、かりに有名人に取り合ってもらえないからといって、それはもはや、社会階級やコネの問題とは呼べなくなってしまっている。有名人の側から見れば、原理上もはや、壁など存在しないに等しい。わたしたちの誰かと議論をはじめたければ単に、そのひと自身に関するあらゆる独り言的言及の海の中から、ひとつのことばを取り上げてみればいいだけなのだ。

 

さてでは、そこに対等な議論は成立しているだろうか。そもそもが非対称な関係、対等な話など、双方が望んだところでできるわけがない……というのがむろん冷笑主義の一般的な立場だが、そういった一般化に明け暮れるのは、イコール現実を見ることを拒否するということだ。立場の違いこそあれ、わたしたちが同じ思考様式を持つ人間という種族である以上、そこに対等性の宿る余地はあるのだ。そしてそこに実際に対等性が宿っているのかどうか判定するのは、ひとつひとつの具体例を眺めてみてからでも遅くはないだろう。

 

しかしながら今回、さきの問いには答えないことにしよう。そのためにはまず対等性を定義しなければならないし、そのうえで、個別の事象に目を向けなければならない。そのうえひとつひとつの個別の事象から見えてくるものは、あくまでその特定の有名人と一般市民の組合せに、対等性を成立させる意思と能力があるかという、きわめて限定的な結論に他ならないのだ。要するに、周到な準備と莫大な観測が必要なテーマだから、こんな短時間で答えられるわけがないのだ。

 

かわりに、こんなことを考えてみよう。わたしたちは対等か、という問いに答えるのは難しくとも、その問いはある程度の重要性をもって、現に成立しているように思える。ではわたしたちはなぜ、まったく対等ではなかったはずのわたしたちのあいだに、今になって対等性を期待するのだろうか?

 

個々人のアカウントがシステムのうえでは対等だ、というのはおそらく、ひとつの理由ではあるだろう。ここはインターネット、わたしたちがはがきを送って雑誌に回答が載るとかいった、そういう非対称な世界ではないのだ。だがその手の信念以上に、実際の有名人の側の行動が、わたしたちに期待をもたらしていると考えることはできないだろうか。

 

一部の有名人は、わたしたちと真の意味で対等に話をする。すくなくとも、することがある。それがいかにくだらないこと――たとえば、機械の使い方に関することなど――であっても、あるいは庶民的であることをアピールするマーケティング上の意図に基づいていても、わたしたちの目には、彼らがわたしたちと同じ世界で生きているように見えてしまう。

 

彼らは特殊な存在かもしれない。いや、特殊な存在だろう。「普通の有名人」――そんな概念がほんとうに成立するのであればの話だが――はおそらく、わたしたちとはかけ離れたところにいて、かけ離れた思想と生活を持っている……、わたしたちの議論に参加するつもりはない……、だがその姿は間違っていると、わたしたちは考える。

 

だからこそ、わたしたちはインターネットという欺瞞だらけの媒体に、それでも真実性を期待してしまうのだ。