なぜ三角関数を殺してはいけないのか

高校数学など学んで何の意味があるんだという怨嗟がすでに叫びつくされたものである一方で、その手の恨みの声に的確に返答するのは難しい。世の中に識者とはごくわずかだが、識者らしき態度を取るひとなら大量にいて、そういうひとたちはきまって、数学嫌いの魂の叫びを否定する側にまわる。彼らの答え――たとえば「三角関数は工学にも経済学にも役に立つ」だとか、「数学が役に立つ人生もありうる」だとかそういったもの――にはもちろん説得力の欠片もないし、こんなものを聞いてなるほど分かりましたと引き下がる奴が出るなら、是非見てみたいとすら思う。思うのだが、どうやら当の回答者たちのなかでは、こんな究極的な空虚さが依然として、答えとして成立しているように見えているようだ。

 

もっとも、彼らを責めるのは酷だろう。答えではない何かを答えだと信じ込んでいるという一点を除いて、彼らに改善しうるところはなにもないからである。すでに叫びつくされた怨嗟がなお叫ばれるというのはすなわち、それに対するまともな回答を誰一人として思いつけなかったことの証左なのだ。数学を学ぶ意味という基礎的な問いは、一介の自称識者が答えを与えられるような代物ではないし、本物の識者だっておそらく、特に執念深くもない普通の高校生を納得させることすらかなわないだろう。だからたとえ彼らが、彼らが答えと呼ぶものの不完全さに今頃になって気付いたとしても、今度は彼ら自身を納得させられなくなるだけで、現実の高校生のためになれることなどなにひとつないのだ。

 

そういう意味で、この構図はとあるさらに根源的で、さらに有名で、そしてさらに陳腐な問いに似ている。それはすべての人間が例外なくさいなまれることになっている問いであり、悩める時期はひとによって異なるが、中学生くらいであるのが一般的だ。この問いに付き合ったことがないとすればそれは、法的宗教的戒律と完全に同化しているか、生まれてこのかた他人というものを見たことがないか、そうでなければ例の自称識者たちのように、なにかに疑問を持つ機能がそもそも脳に備わっていないかのいずれかだろう。

 

そう。もはや言うまでもないが、「なぜひとを殺してはいけないのか」という、悪名高きあの問いである。

 

さすがの自称識者にも、「なぜひとを殺してはいけないのか」に満足した答えを与えられぬことくらいは、おそらく分かってもらえるだろう(もしそれでもなお「遺されたひとが悲しむから」とか言い出すのであれば、その場合、ひとを殺してはいけないという規則に例外ができたわけだ)。そして満足した答えが与えられないからといって、殺してもよいということにはならぬというのは周知の事実であり、つまるところ、倫理の問題に論理が口を出すべきではないのだ。