インターネットの教祖たちへ

インターネット広しといえども、その発言権の平坦さの中で、独自の思想を育て続けた人間はそう多くない。インターネットとはかつてないほどの情報の物量であり、そして物量とは、人の思想を変えるためのもっとも愚直で、そしてもっとも効果的な手段だからだ。とりわけ、すべてのひとがただインターネットを眺めるだけでなく、発言権を持つようになった現代では、その物量には双方向的な同調圧力の効果が加わってくる――すなわち、もしだれかが「わたしたち」とは異なるものだとみなされてしまえば、そのだれかの根性は、叩かれ、燃やされ続けて、「わたしたち」と同一化するか、あるいは「わたしたち」憎さのあまり、常に「わたしたち」の逆を行くことを志す、単なる「わたしたち」依存のアンチパターンに陥ってしまうわけだ。

 

だが、ごく一握りながら、そんな中にも独自の思想を育てている人間は存在する。そんな人間は、たとえば経済やジェンダーなどの社会対立に首を突っ込み――そして、その対立の双方から疎んじられたりしている。そしてそれでも、単なる双方のアンチパターンのかけ合わせに陥らず、オリジナルで、過激で、極端で、絶対に世界を統べることはない思想に傾倒し続けている。

 

もちろん、その思想に共鳴する人間は、本人をおいてほかにほとんどいないだろう。こうして彼らを一口に切って捨てず、一定の賛辞を与えているわたしとて、彼らの偉大なる狂気にはめったに心酔しない。わたしが普段常識に対して向けている俯瞰と冷笑、それとまったく同じ態度を、わたしは非常識にも向けるつもりだ。

 

さて、だがこの議論を、純粋で高尚な思想の次元から低俗な属人性の次元にまで引きずりおろしてくれば、事情は変わってくる。彼らの思想は、たしかに極端で、危険で、独善的だ――だがだからこそ、彼らは尊敬に値する。なぜなら、彼らは少なくとも、考えるということがどういうことかを知っているからだ。思想の極端さだけを以て頭ごなしに彼らを非難する、引用リツイート先の人間たちと違って。あるいは逆に、尊敬する彼らの頭脳の到達点としての敬愛すべき思想を、どれひとつとして真面目に吟味して自分のものにしようともせず、ただそれらすべてを俯瞰し、一般化して悦に入っている、わたしのような評論家とも違って。

 

さて、そんな彼らには往々にして信者がいる。偉大なる教祖たちが教えを開くのに必要だった観察と思索とは対照的に、信者には頭脳も執着心も必要ないから、もちろん信者は尊敬に値しない。だが、いかに信者が無批判で、狼藉を働こうとも、教祖までまとめて非難してはいけないだろう。なぜなら教祖とは孤独で、貴重で、そして興味深い存在なのだから。