輪講第一回 ②

研究者がどんなときに本を書くのか考えてみよう。

 

可能性はいくつかある。ひとつ、あたらしいことを見つけたとき。でもこれは、本を書く動機にはならない。何故かはわかるね? そう、論文を書くからだ。自分の最新の成果を本に載せる研究者はいるし、だいたい最後の章を見るとそういうことが書いてあるんだけど――今回使う本はどうだったかな、覚えてないや――まあ、そのために本を書いているわけではない。

 

じゃあ、次の可能性を見てみよう。世の中には、出版社という団体がある。で、ことあるごとに本を書けって言ってくる。わたしのところにも先週メールが来て、うるさ――おっと、なんでもない。で、あと二回催促が来るまでは無視するつもりだね、ははっ。あっこれ、誰にも言わないでよ。

 

で。まあわたしを見ればわかるように、誰かに言われたくらいじゃひとは書かない。きみたちが半年かけてたぶん読み終わらないような分量を書くっていうのは、それなりに大変だからね。

 

じゃあ、なんで書くのか。それは、自分にしか書けないことがあるからだ。

 

ものごとを理解したいっていうのは研究者の根源的な欲求だ。論文っていうものはその点難しくて、たしかに結果は書かれているんだけど、どうやって理解したらいいのかまでは書かれていない。だからわたしたちはよく、色々な論文を見比べては、理解の方法を探している――きみたちもこれからこの授業で、理解の方法を探す、っていうことがどういうことなのか理解してくれると思っている。

 

で。そういう難しい論文をたくさん読んで、自分でも研究をしていると、不意に理解が訪れることがある。どこにも書かれていないやり方で、研究たちが一枚の布に織り上がるんだ。

 

それを研究者は、本にする。具体的な成果じゃないから論文にはならないけれど、重要な学術上の貢献だ。

 

さて。ここからが本題だ。本を読むだけで、新しいアイデアが思いつくのだろうか?

 

残念ながら。本を書いた人は、その本がある意味では、きれいな体系だと思って書いている。余計なものはなにもなく、足りないものはあるけれど、その穴は筆者含め、世界中の誰も埋められていない。穴があることを筆者は認識していて、埋めたいと思っていて、それでもなお埋められない。

 

一般論だが、誰かが考えてわからなかった問題は難しい傾向にある。だから。本を読んで見つかる穴を突っつこうとしても、まず泥沼にはまるだけだ。わたしたちが研究をするとき、そういう綺麗な体系をあえて別の角度から見て、本の著者すら気づいていなさそうなことを考える。そういう視点は、残念ながら、著者の議論を追うだけでは見えてこない。

 

じゃあ。きみたちはなぜ、本を読むのか。本を読むことが、なぜカリキュラムに組み込まれているのか。

 

もっと言えば、どういう読み方をされるために、本は書かれるんだろうか。

 

これは、勉強と研究にどういう関係があるか、という問題にかかわってくる。