確率を超えたコンタクト

すべての人間がまったく同一のプラットフォームで相まみえることの可能になった現代において、議論と呼ばれる現象は、インターネットのあらゆるところで普遍的に発生している。各界の巨匠と平凡な市民を隔てる壁は見かけ上完全に取り払われており、われわれのことばに巨匠の側が反応しないとして、その理由はなにも、巨匠とわたしたちと住んでいる世界が異なるからではない。有名人――そうだな、たとえばドナルド・トランプとでもしようか――とわたしは、ツイッターのプログラムのうえではまったく同様に働くだろうアカウントを持っており、わたしがトランプに話しかけることとトランプがわたしに話しかけることのあいだには、原理上なんの違いもないのだ。

 

もっともこれは、純粋にテクニカルな視点から見た場合の話に他ならない。いくらトランプのアカウントが内部的には単なるアカウントに過ぎないからといって、わたしとトランプが現実に対等であることはあり得ないということは、まず言うまでもないことだろう。わたしがトランプになにか文句を言うか、あるいは少しばかりおちょくってみようとしてみたところで、トランプはそれを見ていない。それはたしかに、わたしと似たようなことを試みる人間がごまんといて、見る側にいちいち取り合うほどの余裕がないという問題――すなわち純粋な数字の大きさの問題ではある。あるのだが、数という概念に横たわる連続性に反して(砂山から砂を一粒ずつ取り除いたら……という例の議論だ)、大きさというものは存外、本質的な事項なのだ。

 

さて。しかしながらインターネットは、規模以外にもさまざまな障壁のあったわたしたちのあいだの道を、かなりの部分で整備してくれた。いや、むしろ今や、規模こそがもっとも本質的な問題であると言ってもよいだろう。川底に砂金を探すような確率ではあるものの、わたしたちは有名人に直接コンタクトを取って、そして取り合ってもらえる可能性をたしかに持っている。そしてその過程で、たとえばテレビ局に詰めている警備員に捕まるだとかいった、法的身体的なリスクは発生しえないのだ。有名人個人の性格、というものは依然として重要なファクターではあるが、それに関してはむしろ、存在しないほうが都合が悪い。

 

その結果、どうなったか。ここインターネットでは万人の一挙手一投足が保存され、そして公開されているから、確率の壁を乗り越えて有名人とのコンタクトを果たした市民の栄誉を、わたしたちは間近に眺めることができるようになったのである。そして逆説的には、有名人は市民との関わり合いを、大量の目という目によってしかと監視されるようになってしまったわけである。