昨日の続きを書くためにいろいろと考えていたら、ふと、大学一年生のときに受けていた講義のことを思い出した。せっかくなので、軽く触れてみることにしよう。
講義の主題は、ナチス期のドイツについてだった。当時の特殊な世の中をひとがどう生きたかという、日常の面にフォーカスをあてた講義だったと記憶している。ユダヤ人から見たドイツ、というのがまっさきに思い浮かぶテーマだろうが、中身はそれだけではなかった。うろ覚えだが、もっといろいろな視点――たとえばユダヤ人でない市井の人々や、戦場の兵士や、あるいは収容所の看守がどう考えていたか、などを扱っていたと記憶している。
そのなかで、戦場の兵士からの手紙を扱った回があった。ふつうの人々の生活を知りたいのだから、手紙は最高の史料になる。戦場で敵を殺すことについて、そこにはさまざまな考察が書かれている。一般の兵士が感じていたことを知るのに、これ以上のものはない――「手紙を書く兵士だ」という点に、多少のバイアスがかかっていることは認めざるを得ないだろうが。
七年も前の講義だから、手紙の詳細な内容は忘れてしまっている。たしか、人を殺しているが命令だから仕方ないのだ、とか、そういうありがちな内容だった気がするが、実際のところは定かではない。だが、それを扱った先生のことばは、強く印象に残っている。「ひとは正当化をする生き物である」ということばは。
戦場のリアルは陰惨だ。陰惨、だろう。行ったことがないので正確なところは分からないがとにかく、目を覆いたくなるようなものの前で目を覆ってはいけない、という空間には間違いないだろう。自分もその惨劇に、加担しなければならないのだから。
だからひとは自分の行動を正当化する。必要に応じて、どんなことでも正当化できる――そう言い切った先生の姿は、いまでも鮮明に思い出される。思い出されるくらいだから、当時はけっこうな衝撃だったのだろう。ひとの良心こそ当時のわたしは信じていなかったが、論理性のほうは信じていた。そして手紙は、きわめて論理的と呼べるものだった。論理性を失わないままに所望の結論を出すという技術。高等そうなその技術を、普通のひとが当たり前のように持ち合わせているということに、七年前のわたしは驚いたのだ。
さて。その考え方はいまでも、わたしが世界を見る目に強く影響している。
立てるべき問いはふたつある。ひとつはほかの誰かが正当化をする場合の問いで、もうひとつはわたし自身が、正当化をする場合の問いだ。だれかが正当そうな論理を口にしたとき、それは尊重されるべきだろうか。あるいはわたしがなにかを考えたとき、わたしはわたし自身を、どれくらい信用してあげてよいのだろうか?
まあ、答えの出る問題ではない。わたしがあの講義で学んだもうひとつのことは、世の中とはなかなか、一筋縄ではいかないということだ。