価値観のアップデート ①

価値観のアップデート、という表現が、近ごろよく聞かれるようになった。

 

アップデート。ソフトウェア用語で、辞書的な意味では、プログラムなどを最新の状態に更新することだ。だからおそらく、価値観をアップデートするとは、最先端の価値判断基準に自分を合わせることだ。

 

さてでは、最新の価値観とはなにか。

 

アップデート。そう名乗るからには、きっと確固たる最新の価値観というものが存在するのだろう。そしてアップデートのできているひとは、更新情報に気を配って、常に自分をとりかえつづけているのだろう。たとえば、こんな世界を想像してみよう。

 

ある日の正午、ピコン、という電子音とともに、注意をひくメッセージボックスが表示される。脳デバイスのホーム画面を半ば覆い隠すそれは、最新の価値観アップデートが、ついさっきリリースされたことを示している。彼は視線でメッセージをクリックして詳細を確認し、このアップデートが正規のプログラムであって、最近問題になっている脳波ジャックウイルスの類ではないことを理解する。「承諾」と書かれた青いボタンを彼はひと睨みして、再び現実へと戻ってゆく。

 

その日の夜。睡眠インアクティブ時間中に、最新の価値観が彼の脳デバイスにインストールされる。明日の彼の価値観は、今日のものとはわずかばかり異なる――「次のアップデートも承諾せねばならない」という、唯一にして絶対不変の価値観を除いて。

 

SF 好きのわたしからすれば、こういう世界はある種の憧れの的だ。こんな時代が来れば面白いし、ついでに世界はだいぶ、平和になるとも思う。こういう世の中を受け入れたわたし自身の脳を、体感してみたい気もする。

 

だが残念ながら、現実はそんなに魅力的にはできていない。

 

現代はいまのところ、価値観の画一性が保証されていない時代だ。倫理的問題以前に、技術的に保証できない。仮にできたとして社会が許容するか、というのは面白い問いではあるが、できないものの倫理を語っても仕方ない。倫理は常に、地に足をつけていなければならない――そしてそれゆえに、創作は創作として成立する。

 

さてでは、価値観をアップデートするときには、いったいなにが行われているのだろう?

 

思い返せば、件の表現はほとんどの場合、否定をともなって用いられる。旧世代的な言動をした相手を「アップデートできていない」と非難するのが、主な使用法だ。逆に、肯定形で使われることはほぼない。「わたしは価値観をアップデートしました」と宣言すれば、ひじょうに仰々しい誓いのことばになってしまう。まるで過去に重大な過ちがあって、それと訣別したことを示さねばならぬというような。

 

からして、アップデートとはおそらく、気づけばされている類のものなのだ。