「生娘をシャブ漬け」はどう「面白い」のか ④

では。「生娘をシャブ漬け」と聞いて、笑うひとと笑わないひとの違いとはなんだろう。最後にこんな話題を提供して、この話を締めることにしよう。

 

これまで述べてきた通り、「ヤバさ」はある種の笑いと表裏一体だ。あるひとにとって「ヤバい」、もっと言えば不快な表現は、べつのひとにとっては面白い。これじたいは、まったく不思議な現象ではない。

 

そして。

 

笑うひとと笑わないひとの間に、二元論的な壁はないのだろうと、わたしは思う。

 

今回の件に関して言えば、わたしは笑う側に近い人間だ。笑いたいという欲求と、笑えないという抵抗感を比較すれば、欲求の側が勝つ。そうでなければ、こんな記事を書いたりはしない。

 

だがその事実は決して、笑わない側の感じる不快さを理解しないことを意味しない。不快に感じる人がいるだろう、と、わたしは推測することができる。

 

であれば、おそらく。

 

笑わない側の人間にだって、おなじ論理が成立するのではないだろうか。

 

「生娘をシャブ漬け」と聞いて、不快のほうを大きく感じるひとたち。そういうひとが笑わないことを批判するつもりはないし、批判できるようなことでもない。ましてや、茶化すつもりなど毛頭ない。個人の感性は尊重されるべきだ。

 

だが、そのひとたちだって。

 

笑う側が笑うという現象が、発生するという事実。それをまったく推測できない、ということもまた、ないのではないだろうか?

 

「ヤバい」と「面白い」の間のグラデーション。そのどこかに、わたしたちひとりひとりは位置している。位置によって、わたしたちの見せる反応は百八十度異なる――「ヤバい」に近い人は不快に思い、「面白い」に近い人は笑う。

 

「ヤバい」と「面白い」のどちらを、より強く感じるか。この点に関して、ひとはおそらく分かり合えない。だから見かけ上、世の中にはふたつの集団が存在するように見えてしまうのだ。完全に断絶した、ふたつの集団が。

 

だが。それぞれの集団の中とて、まったく一枚岩ではない。

 

純粋に笑う立場と、純粋に不快に思う立場。そのあいだには、微妙に異なるたくさんの立場がある。笑いながらも不快に思い、快からぬなかでも笑ってしまい、だがそれでもわたしたちは、どちらかの集団にカテゴライズされてしまう。二項対立的でないものとは、それだけ認識の難しいものだ。

 

感性を異にするわたしたちは、けっして共感し合うことはできない。

 

だが、それでも。認識し合うことはできる。

 

自分が面白いと思う表現を、不快であるひとがいるという事実。不快だと思う表現を、笑うひとがいるという事実。それを実感できるべきだとは言わない、だが知識として持っておくことはできる。見かけ上の壁の向こう側にいるひとたちが、差別主義者あるいはヒステリー患者にしか見えないとしても、とりあえず違うと唱えておくことはできる。そうとしか思えないけれど、どうやらそうではないらしいのだと。

 

それくらいは、できてもいいんじゃないか。そう、わたしは思うのである。