苦痛の天秤 ①

すべての肉体的苦痛は、いかなる精神の苦痛をも凌駕する。

 

二十年間の非暴力的被監禁経験の重みは、たった一度の肉体的接触によって粉々に砕け散る。

 

この世界の常識。だがその常識がいままさに、覆されようとしている……!

 

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精神の痛みとは不要な機構である、というのが、人工進化学の導いた結論のひとつだ。

 

だいぶ昔。当時は無名だった学者が、ひとつの社会実験をおこなった。

 

社会実験と言ってももちろん、われわれの社会を用いたものではない。植民星の孤立環境で、擬人間を用いて行われたものだ。監獄実験だとか電気ショック実験だとかを現実の人間で試して問題になった、そんな野蛮な時代の話ではないことには注意してほしい。

 

実験の内容はこうだ。植民星のポッドのいくつかに、『原始人間』の集まりを用意する。いくつかのポッドには地球の大気を、ほかのポッドにはほかの組成の大気を封入する。大気組成はかなり無秩序に作られたようで、酸素が百パーセントのものもあれば、ありとあらゆる希ガスを混ぜ合わせたものや、強烈な毒性のある物質を混ぜ込んだものもあった。ある程度の大気への耐性が擬人間たちにはあるから、大気が原因で死んだりはしない。

 

ほとんどの実験は想定通りに進んだが、一部、想定外の文明が築かれたものがあった。

 

それが、精神薬のポッドだった。すなわち、当時の精神薬に含まれる成分を過剰量気化させ、ごちゃまぜにしたポッド。

 

当初の予想はこうだった。彼らは精神的苦痛を知らないから、進化のうえで社会的に不可欠な精神的回避反応を取ることができない。ゆえに、ろくな社会は築かれない。

 

だが実際は違った。高速進化のオプションをつけているとはいえ、彼らのポッドはものすごい速度で文明を発達させた。ポッドサイズから定まる規模的限界点へと到達するのに、一年とかからなかった。これは現実の人間をも凌駕する数字だ。実験をおこなった研究者は、人間の進化がいかにのろまだったかに失望し、こう漏らしたという。人類は決して、奇跡の存在でも何でもない、と。

 

その研究者が何者なのか……については、今更語る必要はないだろう。ひとことだけヒントを与えるならば、彼は『進化の義父』の異名を持つ。

 

ユートピアが本気で目指されたのはそれからだ。精神的苦痛のない世界。なくてもいい苦痛は、ない方がいい。そしてなくす技術があるなら、なくすのが正義というものだ。

 

現代人の脳に宿るナノマシンは、『進化の義父』の遺産である。現代人が、精神を病むといったことと無縁でいられるのは、彼が予想を外した、ひとつの実験の帰結なのだ。