価値観のアップデート ②

価値観のアップデート、とは最近よく聞かれる表現だ。

 

原義では、アップデートとはソフトウェアなどを最新の状態にすることだ。最新のバージョンには最新の機能が含まれていて、新しくできるようになった操作があったり、既存の脆弱性が潰れていたりする。それらのアップデートを準備する開発元は、良かれと思って機能を追加している。言い換えれば開発元は、最新版のほうが便利だと信じている。

 

ところが実際に配布してみると、アップデートにはしばしば悪評が付きまとう。

 

理由の結構な割合は、くだらない一過性のものだ。というのも、ユーザーは変化を拒む傾向にあるからだ。変化とはつねに不慣れを呼ぶものだ――たとえばよく使うボタンの場所が変わっていれば、それが一見して分かりやすい場所に移動していたとしても、ユーザーが最初に感じるのは便利ではなくその逆なのだ。

 

そうして、あとから見れば改善であったように変更も、最初はときに改悪と呼ばれる。

 

アップデートには、そういう理不尽な批判がついて回る。いつかは変えなければならなかったものを今変えた、とか、そういうことに対する批判だ。

 

だが。開発元が実際に改悪を行ってしまうことだって、結構、ある。それに関しては、みなさんご存知の通りだろう。ユーザビリティの低下はもとより、新たなバグを埋め込んでしまったり、一部のバージョンに対応しなくなったりしてしまうのだ。

 

この意味で、最新とはかならずしも最善を意味しない。最新は多くの場合、誰かが最善だと信じているものではあるだろう。だがその誰かというのが、果たしてひとりのユーザーの立場にいるのかと言えば、必ずしもそうとは言えないだろう。

 

さて。おそらく価値観に関しても、同じことが言える。

 

新しい価値観。それを主張する側は、自分が歴史の正しい側にいると信じている。そして実際に、吹聴してまわる。現代でこそ革新的なわれわれですが、百年後には主流の考え方なのですよ、と。

 

だが、歴史はまっすぐには進まない。ある価値観が台頭すれば、かならずその逆が勢いを増す。両者はせめぎあい、ときに社会や国家を巻き込んだ戦いへと発展してゆく。そして最終的に勝利する側は……といえば、正直いまいち、よく分からない。

 

革新的な側が勝つかといえば、必ずしもそうではない。勝ったように見えて、現代の戦争の問題のように、数十年経ってから揺り戻されることもある。あるいは社会主義のように、新しい思想が勝利している途中に見せかけて、実質的な敗北への道を辿っていたことだってある。あまりに革新的過ぎたがゆえに、歴史の文脈とはとくに関係のない、その時代の理想主義者の肖像として教科書の章末でさらりと触れられる存在になるということだって、またある。

 

とはいえ、べつに最新の価値観を揶揄するつもりはない。実際に新しい側が勝つこともあるし、そうなるかどうかは誰にも分からないからだ。