振り返り:満足すること

こんばんは。今日も振り返りの時間です。

 

この日記が生まれたのは、一年と少しまえの出来事です。まだ肌寒さの残る三月中旬、といってもめったに外出しないわたしには関係のないことですが、とにかくそういうセンチメンタルな時期に、わたしの欲求は限界に達しました。

 

それは書きたいという欲求でした。今考えていることを、とにかく文章にしたい。誰かが見られる形で、保存しておきたい。そういう葛藤は溢れかえり、とどめようにもとどまらず、ついにわたしという器から流れ出しはじめました。行動しないことこそを正義とみなし、現状維持をこよなく愛し、誰よりも自分自身に対して寛大であろうとする、このわたしという器から、です。

 

葛藤は主に、ふたつの要素からなっていました。ひとつは、具体的な思考。世の中とか自分とか、理想とか現実とか。壮大過ぎるがゆえにくだらない、答えが出ない故に意味のない、そんな問題について考えることに、わたしは憑りつかれていました。

 

もうひとつは、記録への欲求でした。当時のわたしはほとんどの時間を、ただ思索に耽って過ごしていました。ほかのことはほとんどしていませんでした――不可抗力的に、犠牲にしていました。

 

もっとも、犠牲と呼べる時間だったのかは定かではありません。何かのための犠牲とは、その何かを諦めれば失わずに済んだもののことを言うのです。当時のわたしに、考えるのをやめることができたかと言えば、それは……。

 

まあ、脳は持ち主の計画に従ってはくれないものだ、とだけ言っておきましょうか。

 

とにかく、わたしはこう考えるようになりました。わたしの考えたことは、多くの時間的代償を支払って得られた結果です。貴重な財産です。忘れてしまっては示しがつきません。ですがひとの考えとは、二度と同じ場所には戻ってこないものです。

 

だから、記録しておかなければ。笑ってもらって構わないのですが、わたしはわたしの考えたことに、記録するだけの価値があると信じていたのです。

 

そして。

 

わたしは正直、考えることをやめたかったのです。

 

書くこととは、自分を楽にしてくれるツールです。幾度かの経験から、わたしはそう知っていました。自分自身と真摯に向き合い、思考をことばへと昇華する。簡単な作業ではありません。たいていの場合は、書いているうちに理解の甘い部分が見つかって、考え直す必要が出てきます。

 

ですがもし。わたしが書いた文章に、わたし自身が満足できたなら。

 

それはもはや、わたし個人の脳内現象ではありません。確固とした事実です。わたしに寄生せずとも、ひとりで歩んでいける単一の概念です。

 

そうなれば、もう考える必要はありません。考えようという衝動とも無縁です。事実なのですから、疑う余地はないのです。

 

誰だって悩むのは嫌いです。そして真の満足が得られれば、葛藤は解決します。そういう経験は多くはできませんが、何度かはできます。

 

そして。そんな満足が、わたしは欲しかった。これこそ、わたしが書き始めたときの、いちばんの期待だったのかもしれません。