「生娘をシャブ漬け」はどう「面白い」のか ①

とある発言が、世の中を賑わせている。

 

その発言は、とある大学の社会人向け講座の中で飛び出した。企業のマーケティング戦略を教えるための講座で、報道によればさまざまな企業の担当者が、入れ替わりで講義をする形式らしい。その、記念すべき初回。とあるファストフード・チェーンの戦略担当。

 

……まあ。何のことだかは、もうお分かりのことだろう。そう。「生娘をシャブ漬け」発言のことである。

 

当然のごとく、発言は燃えに燃えた。その様子も、きっとあなたは知っているだろう。だからこれ以上、何が起きたかを説明する気はない。わたしは記者ではないから、新しい事実を与えられるわけでもない。もし知らないなら、「生娘をシャブ漬け」で検索してみて欲しい。何が起きたのかは、すぐにわかるはずだ。

 

今日書きたいのは、炎上の一部始終についてではない。「生娘をシャブ漬け」という、この用語。タイトルにもあるように、それがどう面白いのかについてだ。

 

……何を言う。少なくない数のひとがいまそう感じて、わたしを非難しようと考えただろう。不快に思った人がいるから問題なのに、面白いとは何事だ、と。だが。

 

いま、拳を振り上げた方へ。その拳をおろす前に、すこしだけ、説明を聞いてはいただけないだろうか。

 

最初に断っておくべきことがある。わたしはなにも、この発言を手放しに称賛しようとしているわけではない。講義の場ですべき発言ではなかったと、わたしも思う。

 

簡単に言えば、あの発言はかなり、「ヤバい」。それには、わたしも直感的に同意するところだ。みんなが「ヤバい」と言っているからとりあえず口を合わせておこう、などといった意図はまったくない。わたしは本心から、「ヤバい」と思っている。

 

さて。

 

「ヤバい」。いまわたしは、あえてそうアバウトに表現した。というのも、それがわたしの第一感だからだ。さまざまな「ヤバさ」、全部ひっくるめて「ヤバい」。おそらくこれは、多くのひとに分かってもらえる感情だと思う。

 

そして。誰もが「ヤバい」と直感するのであれば、それはまぎれもなく、「ヤバい」。ポリティカル・コレクトネスが突き詰めれば感情の問題である以上、全員が「ヤバい」と思えば、それはヤバいのだ。議論の余地などない。だから、この問題はこれで終わり。

 

……ということには、もちろんするつもりはない。

 

あえて問おう。「生娘をシャブ漬け」という発言はなぜ。これほどまでに、「ヤバい」のだろうか。

 

……そんなことも分からないのか、という意見が聞こえてきそうである。だができれば、もうすこし待ってほしい。わたしはなにも、この「ヤバさ」を説明できないわけではない。実際、「ヤバい」部分は、一瞬でいくらでも見つかる。

 

挙げてみよう。「生娘」はヤバい。「シャブ漬け」もヤバい。その後に続く、「男の金でいいものを食べるようになった女性」もヤバい。ひとつだけでもアウトなのに、次から次へとヤバいものが出てくる。こういう状況を、麻雀にたとえてよく「数え役満」と呼ぶが、厳密に言えばべつの概念だろう。なぜなら麻雀において、単体で役満になる役を含む和了形のことは、数え役満とは呼ばないからだ。

 

そして。この有り余る「ヤバさ」の中にこそ、もう一方の側面、すなわち「面白さ」が、潜んでいるように思われるのである。