長い髪と戯れる

身の回りは面白いものでいっぱいだ。つい手に取って、もてあそびたくなってしまう。輪ゴム、ティッシュペーパーの切れ端、サランラップ。指先で捏ね、壊さないように変形し、指に伝わる圧力を楽しむ。もしくは綺麗に置いて、眺めて楽しむ。気づけば、小一時間が経っている。ものすごく楽しくて、ものすごく無益な活動に。

 

無益をこよなく愛するものとして、その時間はかけがえなく尊い。表現しようのないレヴェルで、五感を満足させてくれる。文化も文明も、ことばさえも不要な恍惚。原始の喜び。ヒトが生物種であることの証拠。

 

だから、わたしはこの癖に満足している。いかに時間が経とうとも、それに代わる経験はないのだから。どんなことばも、根源的な感覚の世界に影響することはできないのだから……

 

……というわけには、さすがにいかないのである。

 

喜びはほかにもある。ヒトは確かに生物種だが、知的な生物種でもあるのだ。高級な感覚、文化と文明を介した複雑な感覚は、おそらくわたしたちのことばを通じてしか獲得できない。原始の感覚が生物種である証拠ならば、高度な感覚は、ヒトが人である証拠だ。

 

サルと呼ばれることは多いが、一応わたしはサルではない。複雑な感覚だって、好きにはなるのだ。いや、むしろ複雑さのほうを、より深く。

 

そうはいっても癖が消えるわけではない。だが癖を自覚したとき(高級生物の証拠)、それ相応の対応を取ることはできる。対応とは、ほとんどの場合、捨てることだ。身の回りにある面白いものとは、悲しいかな、捨てても構わないものばかりだ。

 

だが一部、捨てられないものがある。

 

細長いものは面白い。結んだり巻いたり、いくらでも遊びようがある。なのにそれは常に、わたしとゼロ距離にある。時間を無駄にするなと言うほうが無理な話だ。

 

それは細長い。さんざんいじくった後にも、なかなか捨てられない。それもそのはず、その物体は人体から生えている。人体の面白い箇所。ほとんどのひとに、いくらでもある機構。原始的興味の対象、だがひとによっては、理知的なほうの興味にも値する。

 

もうわかっただろう。正体は、髪の毛である。

 

長くなった前髪。ある程度かき集めて束にすると、たわしのようなふさができる。束を輪ゴムで縛れば、ぽんぽんと心地よいおもちゃの完成だ。髪が縛られているあいだ、触覚の満足は保証される。原始の感覚、気持ちの良いものは触りたいという。

 

指先でいじくると、結び目ができる。たいていの場合はすぐにほどけてしまうが、うまくやると、解けない結び目になる。髪が伸びていればいつでもチャレンジできる、ちょうどいい難易度のタスクだ。

 

もちろん、ずっと結ばれたままでは腹が立つ。だから結ぶやいなや、わたしは結び目を引きちぎる作業にかかる。結び目の先と根元をつまんで、数本ずつ引き抜いてゆくのだ。髪に引っ張られ、頭皮には痛みを感じる。気持ちいいの範疇ギリギリに収まる、もっとも快適な痛みを。

 

というわけで、長い髪とは面白い。言い換えれば、時間を食う。髪にかまけては紙に向かえない。原始的欲求と理知的欲求のトレードオフだ。

 

え? それが日記を書くのに手間取っている理由だろう、って?

 

残念ながら、違う。わたしが理知的判断ができる人間であることを忘れないでほしい。

 

そう。昨日、散髪に行ったのだ。