身近な面白さなんてなくていいです

面白いものが手元にあると、つい触ってしまう。わたしにはそういう習性がある。

 

たとえば、輪ゴム。遠くから見れば連続的な輪っかで、滑らかな感触を思い起こさせる。ところがどっこい、指の下で転がせば、不連続な圧力を感じることができる。それもそのはず、輪ゴムの断面は四角形なのだ。四つの角によってもたらされる、「一段階転がす」という概念。ただのゴムに、生命らしきものを宿らせる仕組みだ。

 

ほかには、錠剤のシート。薬を飲み終わって、抜け殻になったやつだ。持ち運ぶときのスペース削減のためか、シートは一列ずつ切り離せるようになっている。行き届いた配慮。

 

だが配慮は面白さとして消費される。つまるに切り離すとは面白い操作なのだ。プチプチをつぶさずに捨てる奴なんていないのと同じで、切り離せるという事実だけでもう、切らずに捨てるのはもったいない。

 

切り離せるものの中でも、錠剤のシートはかなりやる奴だ。「こちらがわのどこからでも切れます」はどこからも切れないことで知られているし、袋菓子のパッケージのギザギザは、切り口の運命をまったく保証してくれない。だが錠剤のシートときたら。完全に直線的で、厳然として間違えようのない、美しいあの切り口ときたら! 切断の美、危険なほどに硬派な美。完璧な直線が、真新しくあらわれているではないか!

 

切り離した後の状態もまた素晴らしい。同じ形の穴が複数空いた、板状の物体。別の穴にぴったりと差し込むことのできるでっぱり。これはもう、レゴブロックと呼んで差し支えないだろう。厳密に言えば、プラスチックの厚みのぶんだけ、穴のサイズは足りないはずだ。だがじっさいやってみると、うまく嵌まるものがほとんどだ。

 

レゴブロックの面白さについては、今更説明するまでもないだろう。

 

そんなことだからわたしは、身の回りになにかがあると、すぐにいじくり始めてしまう。そうしてするべき作業が進まなくなる。面白いものをすべて排除しようにも、あまりにいろいろなものに面白さを感じてしまうものだから、埒が明かない。日によっては、ティッシュペーパーにすらもだ。細かく裂いてこよりをつくり、三つ編みにする。三つ編みを三本集めて三つ編みの三つ編みをつくり、両手で引っ張る。ティッシュとは思えない耐久力に驚嘆し、ティッシュを引っ張り続けて一日を過ごす。

 

まあ、こんなところである。三つ編みの三つ編みの三つ編みを作ったときは、二リットルのペットボトルをぶら下げてもびくともしなかった。

 

身近なすべてに、面白さを見出す能力。何の足しにもならない能力。癖だと思ってあきらめてはいるが、難しげな名前がついている精神特質なのかもしれない。だが探っても仕方ない。名前があったところで解決する問題でもない。代わりにわたしが名付けるならば、愛と名付ける。卑近なすべてへの愛。面白きことばかりの世。

 

面白いものを壊すことだってままある。残念なことだ。だがそれも宿命。

 

世界を愛する者の宿命を、わたしは受け入れている。