封印していた感情がぶり返す。非人工の静寂の中で、ぼくは静かに取り乱す。カナタと事件は、セットにされるべきではなかった。こうやって、カナタを現代に縛り付けるべきではなかった。
カナタが、絶対に望まないだろう形で。
冷静な部分のぼくは、ぼくの乱心それ自体を俯瞰している。カナタの解放を願うのは、ぼくがカナタに親しみを持っている証拠だろう。ぼくはカナタを友だと思うように仕向けられた。そして、素直に友だと思っている。ぼくだって共犯じゃないか。それとも、カナタと別れたいのか?
明白な理屈が立ちはだかる。事件の被害者として以外に、ぼくがカナタを知る理由はなかった。カナタが縛り付けられていなかったのなら、ぼくはそもそもカナタを想えなかった。
分かっている。そう分かってはいるけれど、不条理な感情は、理屈では消えてくれない。
式場はすでに明るく、互いの顔が肉眼ではっきりと確認できる。どの目もおなじように、別々の友への想いに揺れている。それは純粋な、死の悲しみなのだろうか? あるいは不条理な親愛への、離れようにも離れられない不器用な想いなのだろうか?
カナタを忘れてあげたい想い。忘れたくない想い。ふたつの思いが交錯し、混じり合って矛盾のかたちをとる。逃げ出したくなる感情、だがこの瞬間、現実は仮想空間ではなく、現実そのものを見せ続けている。四百年前と同じように。
式場の白い壁。何も映っていない無機質な壁は、現代ではむしろ新鮮な情景だ。普段なら補正で取り除かれているはずの染みが、なぜだか無性に気にかかる。ぼくはその染みの中に時間を見る、過去と現在を繋ぐ時間の、一点へと圧縮された流れを。そしてその流れの先の、未来を見る……
そのとき、ぼくははっと気づいた。カナタを忘れることと、忘れないことを両立させる唯一の手段。
ぼくが、カナタを解放する。
ぼくはカナタを忘れることはできない。母に連れられてこの集会に来た頃から、ぼくはずっとカナタとともにあった。もし忘れろと言われても、現実の友の場合にそうするのと同じように、断固として断るだろう。
でも。次の世代に、カナタを語り継がないことはできる。
そうすればきっと、カナタは忘れてもらえる。常に悲劇に紐づけられることはなくなる。悲劇の被害者として現代に生き続ける亡霊ではなく、四百年前のひとりの名もなき技術者として、正当な評価を与えてもらえる。
カナタはきっとそう望むだろう。きっと。
冷静な部分のぼくが、皮肉な言葉を提示する。歪んだ独占欲の裏返し。ぼくが最後の友となれば、カナタは永遠にぼくのものになる。ぼくが求めているのは、どうせそういうことなんだろう、と。