連鎖たこ焼き機列 ③

原始のぼくはふわふわと、黒い穴の中を漂っていた。

 

その穴に重力はなかった。視覚もなく、聴覚もなかった。だから上も下も、あらゆる方向の感覚もなかった。ことばはなく、ぼくと片割れとの間の区別も、またなかった。

 

次の鉄板に移される経験を通じて、ぼくは重力と方向とを学習した。砕けゆく黒い物体がある方が下で、ぼくが吸われてゆく方が上。物体は上から下へと流れる。ぼくは下から上へと流れる。それが宇宙の摂理

 

次の鉄板でぼくは、重力に関する認識の間違いを知る。あの現象の起こっているとき以外は、ぼくも下に向かって吸われてゆくのだ。現在のぼくが「破壊」と呼ぶあの現象だけが重力の例外だと、ぼくは世界に知らされた。

 

真実に気づいた経緯は、いまとなっては定かではない。ぼくが世界を見て、自力で気づいたような気もする。ぼくとぼくが口論して、片方の認識の正しさを認めたのかもしれない。あるいは重力を知っているぼくが、重力などに何の興味もなかったぼくに教えてあげたのかもしれない。

 

おそらく経緯は、ぼくがどのぼくかに依るのだろう。

 

だが現在のぼくは確信している。ほとんどの事項では、最後のケースが正しかったのだ。片方のぼくが知っていたほとんどのことを、もう片方のぼくは知らなかった。そして知らなかったからこそ、もう片方のぼくの知識を受け入れたことにすら気づかなかった。

 

そう。ぼくの知識のほとんどは、片方のぼくの知識のみによって定義されている。

 

空中で、ぼくは溜息をつく。どうりで、同一なわけだ。

 

この世界のぼくたちはよく喧嘩をした。どの世界のぼくたちもしていた。どの世界でも、ぼくたちは正反対の存在なのだと信じ込んでいた。

 

だが喧嘩になるのは、ごくわずかなケースだけだ。ひとつのことを両方のぼくが知っていて、なおかつその認識が食い違っている場合。それはわずかばかりの、くだらない差異だ。比べ物にならないほど大きな、片方しか知らなかったことに関しては、ぼくたちは今の今まで完全に無頓着だった。

 

ならば、ぼくの持つそれぞれの知識は、いったいどちらのぼくから来たものなのか。

 

どうでもいい、と片方のぼくが言い、もう片方のぼくが同意する。この穴の中で出会うまで興味すらなかったこと。今では当たり前のように知っていること。そんな知識の出自を探ったところで、つぎの穴の中で何ができる?

 

次の穴の中でぼくはまた、知識を無条件に受け入れる。両方のぼくが持たなかった知識をだ。ぼくも相手のぼくも、そのことには気づかない。すでに知っているものの呼び名などといった些細な齟齬によって、本質的な同化は覆い隠される。

 

どのぼくが何を知っていたとしても、結局すべては同化し、区別できなくなってしまう。どこかのぼくが思いついたことは、しばらく経てば単に、ぼくが思いついたことになる。

 

それは悲しいことだろうか?

 

いや。頭上の鉄板の黒を見て、ぼくは思う。

 

ぼくとぼくが同一だという知識。まぎれもなく、それはぼくが思いついたことだ。

 

次以降のぼくは、その知識を無条件に受け入れる。ほかのぼくには、考えつきもしないことだろうから。ぼくの導いた知識は、この世界が存在した証拠は、未来のぼくのなかで永遠に生き続ける。

 

ぼくの持つどんな知識にも、それを最初に思いついたぼくがいた。ぼくとは結局、ぼくが思いついたことの集積なのだ。たまには同じことに想いを馳せて、違う名前を付けるぼくもいるけれど、たいていの知識は、あるひとつの世界で生まれた知識だ。

 

この世界のぼくが、ぼくの知識の集積に新たな具材を与えられたことを、ぼくたちは誇りに思う。