祈り、あるいは幻影への追従 ④

ぼくはほかの犠牲者に想いを馳せる。隣で悼まれているだろう誰か、おそらくは生前のカナタの知人だった誰か。ぼくはそのひとの名前を知らない。


知っているのは、犠牲者が百二十人だったことだけ。カナタはそのうちのひとりだ。ほかの百十九人の中の何人かのことは、少しだけ知っている――カナタの遺影や《幻影》の話に出てくるから。でも彼らの遺影を見たことはないし、《幻影》と話したこともない。

 

カナタの同胞。もしかすると、ぼくが担当していたかもしれない誰か。


その中の誰かは、果たしてこの状況を望んでいたのだろうか。古風なやり方の模倣で、追悼されることを。未来人が一律な過去に帰る未来を。


カナタ以外の《幻影》は、答えてくれているのだろうか。


四百年後の未来に生きる《幻影》、会員に割り振られた自分自身。彼らは望まざる最期を経験し、それゆえに四百年間語り継がれている。彼らの住まう文脈は、痛ましい記憶と常にセットだ。裏切りと絶望。最期の瞬間だけの切り取り。

 

追悼されるためだけに生きることを、彼らの誰かは望むのだろうか?


……もし。もしそうでないとしたら。

 

この茶番はいったい、何のために?

 

薄明かりが式場を包む。自動調節の切られた瞳孔に配慮した、さりげないやさしさの技術。おそらく、全員の映像が終わったのだろう。だが完全に明るくなるまで、席は立たない約束だ。

 

悲しみのトリガー。それが彼らが、現代に存在する意義だ。

 

百二十人分の《幻影》を通じて、事件ははっきりと記録されている。悲劇の全容は、アーカイブから誰でも簡単に確認することができる。絶望の記憶は生々しいままに、四百年間ずっと、そこにある。大量の悲嘆、大量の死。

 

四百年前の記録であることは、もちろん誰だって分かっている。だがその事実も、あの痛ましい映像の嵐の前で、無感動でいるための根拠にはならない。


だがそれでも、過去は風化する。いかなる悲劇の巨大さも、ひとを過去には留め置けない。百二十人ぶんの《幻影》と遺影を並べて展示したところで、それは見る者にとっては、ただのひとつの歴史の記録にすぎない。数ある負の歴史のひとつ、教科書の一ページ。


だからこそ、ぼくたちは個人を追う。ぼくはカナタを追っているし、みな思い思いの誰かを追っている。百二十人の死は統計にすぎない、だが親しみある個人の物語としてなら、ひとは歴史に共感できる。考古学者ではなく、当事者として。時代を超えた友情の、終焉の物語として。


歴史にリアリティを持たせるための、個人という舞台装置。


それが、ぼくがカナタを好きでいる意味だ。


だけれど。ぼくは時折、このシステムに疑問を抱く。人間の性を逆手に取った仕組み、忘れないための束縛。

 

ぼくは思う。カナタはあくまで、ひとりの技術者だ。舞台装置として生まれたわけではないし、生きたわけでもない。四百年前を知らない未来人の、実感のトリガーにされる未来。そんな未来を、望んでいたはずはない。

 

共感の舞台装置。それは確かに合理的ではある――だがそれ以上に……

 

……ものすごく、残酷だ。