祈り、あるいは幻影への追従 ⑥

参列客が立ち上がり、視神経チャネルの制限が解かれる。現実の光と全くおなじ光量で、仮想の光が視界を満たす。周辺視野のポップアップがなければ、まったく気づかなかっただろう変化だ。


だがいま、ぼくはその瞬間をはっきりと知覚できた気がした。過去の幻想が崩れ去り、現代へと同化する転換点。カナタたちの追悼が終わり、ぼくたちの現実が再開する合図。


……ぼくの中で、決意が固まってゆく時間。


現実の光が落ちる。ぼく以外の誰にも意識されないまま、ただ静かに過去が姿を消す。ぼくの視野を満たすのは、もはやまぎれもない現代だ。過去の姿は、どこにもない。


最初はまばらに、そして次第に大きく、式場が話し声で満ちる。その声は聴覚デバイスで補正され、環境音から切り離されて聞こえる。現代という明瞭な音。それは幾多のプロセスを経て脳を満たし、だがそう知らなければ、直接耳を揺らす音のように聞こえる。過去の、四百年前の人類が聴いていた音と同じように。


だがぼくは、いまが現代だと知っている。


ぼくの感情は独りよがりの独占欲か。口惜しいが、否定はできない。《幻影》はそうは言わないが、カナタは自分の名を後世に残したかったはずだ。たとえそれが、こんなふうに、望まない形の残り方だったとしても。

 

だってカナタは技術者だから。カナタを通じて、ぼくは技術者とはそういうものだと教わってきていたから。


四百年経った今でも。被害者性だけがクローズアップされて、人生の論点が歪められていても。カナタを忘れられさせていい権利なんて、ぼくにはまったくないのかもしれない。


だがつづく感覚が、その論理を否定する。カナタとともにあった時間の感覚、過去から未来へと続く流れが。脳を仮想の光が満たし、過去の模倣が喪われたその瞬間、ぼくは過去を振り切ることを決意した。なによりもカナタのために、過去それ自体のために。


過去を過去の姿で、いさせてあげるために。


話し声が大きくなり、ひとつひとつの内容までがはっきりと聞き取れる。ぼくは聴覚情報を遮断して、自分に言い聞かせる。決意が現代に埋もれてしまう前に。現代性の海に溺れて、過去と決意が見えなくなってしまう前に。


ぼくの声が自分だけに聞こえるように、ぼくは音声フィルターの設定を変える。そうして、小さくはっきりとつぶやく。この式に参加するのは、今日で最後にする。カナタとの思い出は、ぼくの心のうちにとどめる。

 

ライフログを遺さない時代に、死とはそういうものであったように。


カナタの《幻影》には、他の無数の《幻影》とおなじく、アーカイブの中で過ごしてもらう。必要なときに参照できる、無数の情報源のひとつとして。


そして、現代のぼくの友、カナタを知る仲間にも、同じことを伝える。

 

カナタが《幻影》を作ったのは、決して死を超克するためではなかった。単なる技術的興味だった――機械がどれだけひとを模倣できるか、という。カナタの思い描いた未来は、生きているひとが《インターブレイン》上に生きる未来だ。憎悪と悲嘆の亡霊として、死者が生かされ続ける未来ではない。

 

だからぼくは、カナタの死を受け入れる。死とはそういうものだと、カナタが思っていたように。四百年間、受け入れてこなかった歴史を代表して。


すべてをもう一度だけ復唱して、ぼくは聴覚を開放した。現代の濁流がぼくを飲み込み、ぼくは流れに身を任せた。だがその流れの中でも、一片の決意が、仮想と現実の両方の光を浴びてきらめいていた。