世界よ、SF になってはくれないか

世界には、さっさとサイエンス・フィクションになっていただきたいものだ。

 

SF の中の主人公は、みな新しい時代のありかたにさまざまな想像をめぐらせている。それは間近に迫った未来への溢れる希望かもしれないし、巨大な破滅的終焉とわたしたちとを隔てていた壁がまた一枚取り払われたことに関する、曖昧ながらも切羽詰まった恐怖かもしれない。あるいは彼らは過ぎ去った時代に想いを馳せ、その未開の時空の不便さへの憐れみを覚えていることもある。もしくは、その不便さの上に自分たちの生活が成り立っていることを思い返し、ある種の畏敬の念を抱いているかもしれない。

 

いずれにせよ、わたしたちがその種の感情を抱くのは難しい。いや。抱くことはあるだろうが、その頻度と新鮮さは、SF の世界よりはるかに劣っていると言わざるを得ないだろう。当たり前のことだが、現実世界の技術の進歩は作家の想像力のスピードと比べてはるかに遅い。作家がただ文章を書けばいいのに対し、科学者は実物を作らなければならないからだ。

 

例をあげよう。わたしたちと破滅とを隔てるヴェールの中で、この世界で最後に取り除かれたものは現状、原子力の脅威であろう。そのヴェールは七十数年前、連続するふたつの悲劇とともに取り払われた。自分自身を破滅させる技術を人類が手に入れたことを、人類はそのとき初めて知った。そして以後七十年以上にわたって、わたしたちはそれ以上の脅威を経験しなかった。

 

しかるに、わたしたちの考え方もまた、七十年前の衝撃の影響を引きずり続けている。そこには七十年変わらない思想がある……きわめて保守的な思想が。その思想が保たれ続けていることについて、特に是非は言うまい。しかしながら破滅という意味では、この七十年の間、この世界にはなにひとつとして SF 的なことは起こっていないと、そういうふうに言えてしまうわけだ。

 

だからこそわたしたちは、新しい世界をフィクションの中に求める。科学者の努力に反して遅々として進まない現実、そののろまな歩みの傍らを、想像力というエンジンをふかして一目散にかけてゆく。その道のうえにはさまざまな、興味深い思想がある――現実の世界で市民権を得るためには、膨大な量の科学的準備を必要とする思想が。

 

そしておしむらくはその思想を、自分自身の思想として抱きたいものだ。

 

世界にはサイエンス・フィクションであってほしい。しかしながらそれは、便利な世界に住みたいという意味ではない。SF を可能にするご都合的な便利さ、万能の召使や食糧問題の解決は、わたしの欲しいものの外にある。つまるところそういうものには泥臭い努力が必要であって……わたしはそんなふうに、地に足をつけるつもりは毛頭ない。

 

だが。新しい考え方のほうには、わたしは飢えている。そのためにどうにか、最高の解像度で、フィクションの中の世界を旅行できないものか。暮らしていく必要はない、ただ見るだけでいいのに!

 

それも叶わぬ夢だということは、もちろん分かっている。しかしながらそのために、世界の実現を待たねばならぬというのも、わたしにはくだらない話のようにまた思えるのだ。