純粋の虚像 ①

ひとりの妙齢の女性が、背もたれのない丸椅子に座っている。見るからに高貴ないで立ちで、丁寧に結われたつややかな黒髪だけでもすでに、ただものならぬ優雅さを漂わせている。純白のセーターは、ブランド物に縁のないわたしですら、庶民には手の届かぬ代物だとはっきりわかる。足はまっすぐに揃えられ、それでいて柔らかに地面を撫でている。

 

牛丼屋のカウンター。二つ隣では、汗かきのサラリーマンがつゆだくを貪っている。どう考えても彼女は場違いなのだが、不思議とそんな気はしない。彼女はいかにしてか、この庶民的な雰囲気に調和している。

 

いや、店の方が彼女に調和していると言うべきか。彼女の存在のおかげで、この店は牛丼屋というより、むしろ高級寿司店のように見える。周りのすべてを優雅で書き換える、確固たる笑みの穏やかさ。トッピング三十円引きクーポンの QR コードは、一見の客でないことを示す合言葉。

 

そんな彼女は、カウンターに座って、変わらぬ穏やかな笑みをたたえている。通りかかるたびに彼女を目の端に入れようとする、厨房のバイトの店員が挙動不審だ。バレていないとでも思っているのだろうか。だが、その店員にも増して滑稽なのは、待ち続けている彼女が、食券を買っていないこと……

 

よくある話。

 

もちろん、実在の誰かの話ではない。わたしの即興の作り話だが、まあ、作り話と呼ぶには少々、ありふれ過ぎたモチーフだ。世間知らずのお嬢様というステレオタイプを、知っているままに描き出したにすぎない。

 

だがステレオタイプとは、美の一般的な姿である。ゆえに彼女の姿は、美しさの標識として機能する。美しさの現身。清純さそれ自身がこの世に像を結べば、こんな感じになるだろう。

 

今回の場合、標識は彼女の無知だ。食券を知らぬという無知は、すなわち食券制の店に一度も入ったことがないことを意味する。入ったことがないとは、すなわち尋常でない高貴ないで立ちを。

 

気品に裏付けられた、家柄を、育ちを、情緒を、純朴を。

 

無知は貴重だ。一度でも店に入ってしまえば、食券を知ってしまう。そして一度知ってしまえば、もう清純なままではいられない。知った状態から知らない状態には戻れない。一度穢れた脳は、もう二度ともとには戻らない。

 

ゆえに、彼女は尊い。無知ゆえに。己の無知にすら、気づかぬゆえに。

 

もちろん、仮に彼女が食券を知っていたとして、知らぬふりをすることはできる。こう考えてみよう。彼女はあえて、食券を買わずに澄ましている。目的はその場の全員に、彼女を高貴な令嬢だと思わせること。本当に高貴かどうかは関係ない――高貴に見せることが、重要なのだ。

 

そして彼女は成功しているように見える。たとえ穢されても、彼女には類稀なオーラがある。だから、誰もが彼女の無知を信じる。確かに欺瞞はある、だがそんな小さな欺瞞は、彼女の気品ですっかり覆い隠してしまえる。

 

だが、観察者たる我々にその手は通用しない。我々は欺瞞を知っている。そして、汚れ無きふりをして誰かに迷惑をかける乙女ほど薄汚れたものはない。欺瞞を知った瞬間、我々の中で、彼女の気品は消える。ファストフード店。まったくお似合いの迷惑客。早く食券を買え、そして食ったら出ていけ!

 

そして残酷なのは、無知には、理性のコントロールが及ばないということだ。