イノセンスの幻影 ②

(自室。パソコンの画面には、小学生のポスターコンクールの入賞作品。題目は、「私たちの海を守る」。)

 

ニュースサイトの画像。生産されるのと同じスピードで忘れられてゆく画像。忘れると知りながら、ぼくはどうしてか、そんなものを眺めている。


(「海を大切に」「いのちを守る」の文字が、カラフルに縁どられたクレヨンで描かれている。その下には、手を繋いでいる子供たちの絵。目が大きく、頭頂は平べったく、首は細い。足元には地球。見たことのない形の大陸は、創造性の発露ではなく、単に世界地理を知らぬことの証。)


使い古されたモチーフ。「子供とは陳腐なものだよ」 そうぼくは言う。


いつもそうだ。こういうコンテストの主催者は、子供のイノセンスを誤解している。予測不能なはずのイノセンスが、主催者の求めた結論を出すと。環境は守られるべきものだというのが、自由で汚れ無き、根源的な発想なはずなのだと。

 

もっと悪いことに、子供のほうもおだてられて、それを無垢だと信じている。なぜなら、子供は無垢だから。無垢と無垢以外の区別がつかないことこそ、無垢の証だから。


だからこんなコンクールが成立する。そうして、無垢の名を借りた、まったく紋切り型のポスターが広報に載る。きわめてワンパターンなポスター。オリジナリティの欠片もない。

 

だから、だれもそんなものには取り合わない。その子の親以外は。


……選んでいる大人は、そんな画一性を知っているのだろうか? 毎回同じものを選んでいる、そんな誰にでも気づくはずの一様性に、彼らは気づいているのだろうか?


……さすがにそれくらいは、分かっているだろう。大人をバカにするのはよくない。

 

それなら、彼らが同じものを選び続けねばならぬ理由については?

 

その理由が、決して人類がワンパターンだからではないことには?

 

子供という生き物が、特別にワンパターンだということには?

 

(その場限りの、底の浅いおふざけ。落選したポスターの海。「地球を壊せ」とすら書けず、ただ何故だか、全員の顔が緑色に塗りつぶされている。)

 

子供には創造性もなければ発想力もない。審美眼など言わずもがなだ。それでも仮に何かを思いついたとして、実現のための技術も、豪胆さもない。

 

場面は冒頭に戻る。


飛行機雲。ポスターを描く年齢で、すでにその創造性は失われているのか。おそらく、違う。小学生はいまだ純粋、ぼくたちはそう思っている。


子供には能力がない。無垢では、すこしでも大きなものを作れない。大きなものには、技術が必要だから。あるいは、精神力が必要だから。パーツの価値を評価し、取捨選択し、決まった方向に突き進むための力が。


子供にもまぐれ当たりはある。だが、二発は当たらない。


(きっとまぐれ当たりこそが、子供のことばの価値なのだろう。大人がそれをありがたがるのは、大人にそれが書けないからではなく、大人が思うよりもはるかに小さな労力で、ひとつの輝けるパーツが見出されたからだろう。偶然とはそういうものだ。)


(飛行機雲を見上げる。ぼくはそれが線ではなく、とぎれとぎれの列だと知っている。だが見れば、飛行機はわずかな雲の向こうに隠れ、他は見渡す限りの青空。雲の奥で宇宙が割れている。すべてに綻びが生じ、それがもうじきあらわになるという、不吉な確信がぼくを支配する。)


綻びの正体。子供は無垢。無垢は何もしない。無垢の価値とは、世界に汚されなかった自分自身という、幻想の注ぎ先に過ぎない。先入観のないことこそ、自由だと勘違いして……


それならどうして、ぼくは飛行機雲を書き表せない……?